見出し画像

前世

 その「遊び」が発明されてから、仲間たちが夢中になるまであっという間だった。つつくと丸く膨らんで毒をだす例の魚は、泳ぐのが遅くてつかまえるのは簡単だが、毒があるのでみんな敬遠していたはずだった。しかし誰かが、毒をよりたくさん浴びると、ふわふわとして気持ちがいいことに気が付いた。「遊び」によって仲間たちは変わってしまった。血眼になって例の魚を探すようになったのだ。特に若い雄が夢中になった。のろまな例の魚を見つけると、我先にと口の先で強く押した。魚は慌てて丸く膨らむが、しぼませるようにまた押してやる。そうして魚の皮膚から出た毒を、顔や前ひれや全身に浴び、しばらくすると脳みそがぼうっとして動く気がしなくなる。そうして集団で魚の毒を浴びて、水面近くに身体を横たえ、いつまでも恍惚としている姿を毎日のように目の当たりにするようになった。なかには、意識を朦朧とさせながら陰茎を肛門に挿入しあう雄もいた。毒を浴びずとも同様の行為に及ぶ者はいままでにもおり、一般的な行為ではあったが、毒を浴びてからその行為に耽るといっそう気持ちがよいようだった。彼らはまわりの目を気にするということがなく、あたり一帯に歓喜の音波が響き渡った。

 こんな姿は我々にはふさわしくないのではないかと思っていた。我々の肉体は流線形で、歯は鋭利で、額からは遠くまで認識するための音波が出た。速く泳ぎ、きらめく魚を口でとらえ、この世界を広く認識するためにできている。痩せさらばえた肉体で水面近くを茫漠と漂うようにはできていない。自分はそのように考えていた。「遊び」に夢中になったものは食事への興味をなくし、生命を維持できるぎりぎりまで食べるということをしなかった。いかにも億劫そうに、群れからはぐれた病気の小魚なんかを食べるので、身体はますます小さくなり、動作ものろまだった。そのまま飢えて死ぬものすら現れた。そいつは微笑みを浮べたまま黙りこくって海底深くに沈んでいったので、自分はそいつのことを心底愚かだと見下した。

 自分は誘われてもその「遊び」には加わらなかった。一度でも加わったらもう終わりで、酩酊にとらわれて一生逃れられないことはわかっていた。苦々しく思いながら酩酊している集団を横切ると、同じように忌々しげな表情を浮かべている者がいることがわかった。血縁関係がなく、話したことのない雄だ。子育て中の雌や子どもたちならまだしも、特にやることのない雄で集団に加わらないやつがいるとは思っていなかった。だがいずれ彼も、酩酊の仲間に加わってしまうのだろう。そう思って尾びれに力をいれて、ぐんと速度をあげると、なぜか彼もついてきた。どちらも特に働きかけを行うことはなかったが、一緒にしばらく泳いだ。群れから離れてしばらくして、はねかえってくる音波に微細な揺れがあることに気が付いた。彼も同じタイミングで音波の変化に気が付いたようだった。水面よりはるか上、太陽の光が、細かなかけらとなって反射しているのが見えた。魚だ。自分と彼と、一緒になって口を開け思う存分魚を飲み込んだ。連携して追い込んで、混乱して思い思いの方向に散らばる魚たちを食べるのは楽しかった。最後の一匹まで食べてしまおう! 自分の周囲できらめく無数の光を、口いっぱいに頬張り胃袋へと流し込んだ。光がきれぎれに散らばり完全にいなくなる頃には、自分たちの腹はこれまでにないほどいっぱいだった。これほど心が高揚したのは久しぶりだった。これこそが我々の肉体の正しい有り様だと感じた。

 しばらく彼と自分だけで狩りをする日々が続いた。集団の連中は例の魚以外の存在には無頓着で、目にはいってすらいないようだった。狩りでは、銀の小魚から色鮮やかな大きい魚まで、多種多様な魚を腹にいれた。たらふく食べて力の限り泳ぎ、自分の肉体は脂肪と筋肉がふえて厚みが増した。皮膚が張りつめて全身に心地のよい緊張感がみなぎり、身体の内側から光り輝くように感じた。泳げば身体の周囲を水は渦を巻くようにして流れる。この世界の大きなエネルギーの流れの一部に自分と彼がいた。彼もますます美しさを増し、どこまでも深く響いていく音波を聞けば惚れ惚れとした。神々しさを感じるほどだった。

 そろそろ群れから離れてもいい頃ではないか。そんな考えが頭をよぎるようになった。ある日、彼と自分で普段のとおり狩りを終え、消化不良になるといけないのでしばらく休みながらゆっくりとしていた。いつも通りだ。彼は帰るそぶりを見せたので、自分は彼の前を横切ってUターンをしてみせた。群れとは反対方向を泳ぐ自分に、彼は戸惑っているようだったがついてきた。おそらく、まだ食べたりないのだろうかとでも思ったのだろう。ゆっくりではあるが、群れからどんどん離れていくにつれ、ただ事ではないことに気がついたようだった。ちらりと振り返ると、彼は不安げに見えた。いま引き返せば、まだ群れには戻れる。そう思い、試すような気持ちで速度をすこしだけ遅くした。しかし彼はふっきれたらしく、速度を上げて自分を追い越すようにしてもっと先へと泳いでいった。うれしかった。いつまでも一緒にいたいと思った。どこか、例の魚なんていない場所で、自分と彼で理想的な暮らしを営むことを夢想した。

 そのまま何日ものあいだしばらく泳いだ。月は満ちては欠けることを幾度となく繰り返した。水温がぐんとあがるのがわかった。海亀の大群を横切った。見たことのない、尾びれが長く頭から長いひれが伸びた魚が泳いでいた。狩りをしながらどこまでも泳ぎ続けているうちに、魚の群れはだんだんとその数を減らしていくのがわかった。まずいかもしれない。しかし彼も自分も、引き返すのなんてまっぴらだった。魚の餌となるような小さな生き物も、徐々に見なくなっていった。水は透明度を増していった。空腹を抱えながら自分と彼がたどりついたのは、どこまでも真っ白な海底が見える浅瀬だった。右を見ても左を見ても、四方八方に全く同じ景色が広がっていた。海にはもう自分と彼しかいなかった。

 彼はいつしか痩せて小さくなっていた。おそらく自分もそうだったのだろうが、気がついていないふりをした。ある日目を覚ますと彼は息絶える直前で、ゆっくりと鼻からあぶくを吐き出しながら海底にその身を横たえた。何度も自分は彼の身体に触れ、泳ぐよう促したが、すでに彼は息をすることはなく胸の鼓動は止まっていた。身体をこすり続けたせいで、自分も彼も皮膚が傷つきだらけになった。自分はあきらめ、彼を置き去りにして泳ぎ続けた。どうしてこんなことになってしまったのだろう。こんなはずではなかったのに。いまさら考えたところでどうしようもなかった。引き返すには遠くまで来すぎてしまっていた。とうとう、力尽きてこれ以上は全く進めなくなった。海はもう、自分の腹を白い砂に付けないのが精いっぱいなほど浅くなってしまっていた。

 我々らしい生き方とはなんだったのだろう。こんなところで死んでしまうなんて。これでは群れの集団と同じ、いやよっぽど無駄な死ではないか。あのまま群れにずっといれば、彼を死なせることもなかったのに。自分も彼も、命を無駄にしてしまった。力いっぱい生きることができなかったのだという後悔でいっぱいになった。やがて後悔することすらできなくなり、自分は徐々に何も考えられなくなっていった。やがて視界はのっぺりとした乳白色で埋め尽くされ、静寂が訪れた。

いいなと思ったら応援しよう!

わかしょ文庫
よろしければお願いします。