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ふたつの名前を持つことへの限界

その名前を呼ばれただけの物語があり、その物語は人生を支える血肉となる。



私が下の名前で呼ばれるのを好むのは、人生を包括してくれる名前が「和香」しかないからである。これまで名乗ってきた苗字が複数あって、どの苗字で呼ばれても「あぁ、私だぁ」という感覚が持てなくて居心地が悪い。



現状、社会活動(という言葉が全く好きではないので口にしたくないが)をするときの名前が「竹口和香」という。この名前を使って書いた文章で賞を取り、名前を検索すると記事がずらりと並ぶようになった。プロフィールに書いてある実績も全てこの名前で呼ばれている。字面も一番すき。



2024年の夏前に新しい町へ移住した。散々使う苗字を悩んで上司を振り回した結果、生まれたときの名前「佐々木和香」を使うことにした。ちなみに今の本名とは異なる。(これがまためんどくさい)久しぶりに呼ばれるその名前に、はじめは反射的に返事をすることができなかった。一呼吸置いて「あ、私か」と自分の名前を思い出す。移住して4ヶ月、ようやくその名が私に染み込んできた実感がある。



繰り返すが、人はその名前を呼ばれただけの物語を持ち、その物語は人生を支える血肉となる。



となると、私は同時並行で複数の物語を進めていることになる。いやいや、芸能人だって芸名使ってるやん。作家もペンネーム使ってるやん。と思えばそこまでの話なのだが、どうも私は器用にやっていくことができないらしい。あっちはこの名前、こっちはその名前、と自分の中で複数の自分を行き来することに徒労してしまう。他の物語を歩んでいるのだから、多少なりとも人格も異なるだろう。



願ったり叶ったりで、仕事と活動の境界線が曖昧になってきている今日このごろ。私の興味はもっぱら、文筆・メンタルヘルス・障がい福祉・旅といったところなのだが、仕事でも活動でも興味分野を扱わせてもらえる機会が増えた。



仕事では、ユニバーサルツーリズムを担当している。横文字でかっこよく言ったけど、誰もが旅を楽しむ権利を持てる社会にしていきましょうね、という仕事。「竹口和香」として摂食障害の活動をしたり、その中でツアーを組んだりしている身としては、これ以上に頑張りたい仕事はない。まだまだ未熟だけど。



かと思えば、町の祭りやイベントをレポートするという仕事も担当することになった。「竹口和香」として日々言葉や文章を綴ってきたのもあり、いつか書くことを仕事にしたかった。それが先日「やっていいよ」と許可が出た。小さい営みだけど、夢が叶ったのだ。うれしい。そして、私が地道に内側で育てている移住エッセイも形にできる可能性が。これはまだ企画段階なのですが。



といった具合で、どこでどの名前を使ったら良いかわからないくらいに、日々の営みが混在してきた。うれしい悲鳴なのかもしれない。好きなことで生きている証拠なのだと思う。



が、それだけに本当に疲れてしまった。どの名前も捨てたくなる。みんな下の名前で呼んでくださいお金払いますという気持ちになる。苗字の概念、この世からなくしません?という願いも出る。



私がこだわりすぎなのだろうか。名前の中にある物語に執着しすぎているのだろうか。誰かに呼ばれた「その名前」に文脈を持たせすぎたのだろうか。どんな名前で呼ばれたって、私は私でよくて、何も変わらないのだろうか。周りのみんなは私がどんな名前だって私だとわかってくれるだろうか。



これからどうするのかはわからないです。いずれ名前を統合しないとやってられないことはわかってる。仕事に支障が出たり、周りにも迷惑かけるかもしれない。それはやだ。



苗字が複数あって疲れちゃったこと。どっちも私だけどどっちも私の全てではないこと。いつか形が変わってしまっても、私の名前を呼んでほしいこと。



これは、ずっと抱えてて言えなかったことの吐露です。読んでいただきありがとうございました。

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