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【けもの道のコーチング】相手を尊重するコミュニケーションしていたら、自分も救われる


【けもの道のコーチング】
 コーチングが目標達成の手段だとすると、どうしても「Human Doing」、つまり「行動したこと」「結果」ばかりに注目することになります。
 「Human Being」は、在り方、生き方、社会へのスタンスなどです。その人らしさのことです。が、目標達成のために勢いをつけて単純に扱いたいときには脇に追いやられがちです。でもとても重要です。
 あなた自身の手であなたの「Human Being」を見つけて生かしてもらいたいのです。

「けもの道のコーチング」出発点の確認|わかさま

https://note.com/wakasama/n/nfc40269060db

 コーチングを普段の生活の中で経験して、自分のやり方を少しずつ修正していく学ぶ機会があるのかなと疑問を持ちました。
 そうしたら、長くなったので、上記のように別項にしました。


 パソコンと同じく、コーチングも学校や職場などで使う道具なのですが、どこか違いがあります。
 コーチングが日本に紹介されて35年くらいになりますが、コーチングが活用されているのは一部に限られています。
 「大事さはわかるけれど、ピンとこない」という感覚でしょうか。
 もしくは、「やってるつもり」「心がけている」でしょうか。

 コーチングもコミュニケーションなので、パソコンの使い方と同じく、誰かに教えてもらうものでも、学びに行くものでもないように思います。
(以前は、パソコンは教えてもらうものではなく、使い方を独学や職場の仲間との情報共有で身につけていくものでした)
 コミュニケーションは、むしろ誰でも普通にやっていることです。できているし、少なくとも自分は大丈夫だ、と思っているものです。
 パソコンとは、「使えなければ、仕事などやりたいことができない」という意味で同じです。

 でも、コミュニケーションは、「普通にやっている」と思っているから、学ぼうとか、仲間内でやり方を共有しようと思いません。
 「自分は普通にできている」と思っているから、「相手を説得する方法」とか「上手な交渉術」、「誰にも伝わるプレゼン術」などの、自分がいま困っていることを改善する方法を学ばなきゃと考えます。
 当然です。

 とはいえ、コーチングを学ぼうとする人もいます。
 本を読んだり、職場から研修に参加するよう促されたり、最近では動画で学ぶ人もいるようです。
 それでも日本に紹介されて35年経った割には、「誰でも使っている」という状況ではありません。

 コーチングといっても、有料のコーチを雇ってというだけでなく、話を聴くのが上手な人に話すのを含めて、
 毎日コーチングで話したり、誰かをコーチしたりしている人の割合よりも、
 むしろ、携帯電話~スマートフォンや電子決済の普及率は高いことでしょう。


 何が違うのでしょうか?

 パソコンやコミュニケーションが道具だとすると、それらの道具を
 「使えなければ仕事などやりたいことができない」
 のだとすると、コミュニケーションのゴールは、
 「自分がやりたいようにやるため」になります。

 そこから素直に、
 コミュニケーションやコーチングがどんなものか感覚的に理解しようとすると、
 「自分がやりたいように、相手をコントロールする方法」となります。

 コミュニケーションは、絶対に相手が居ます。だから、「相手をどうするか?」という生き方(哲学)が関係してきます。
 「自分がやりたいことのため」から発想をスタートさせると、「相手をコントロールする」しかありません。
 別の言い方をすると、「相手に行動を変えさせるよう導く」ことになります。これはコーチングではありません。

 出発点が違うので、道具の使い方がふさわしくないものになりました。


 コーチングで、自分が成果を出すためにはクライアントとして「自分が主人公になる」必要があります。
 自分が主人公になる方は、学校で習ったり、経験してきたら理解しやすいものです。なので、どこまでやるか、努力するかは別にして、理解可能です。
 この発想は、学校やパソコンの使い方を身につけるのと同じです。

 一方、コーチになるということは「相手の意思を尊重する」のが基本です。
 この考え方は、道徳の時間に言葉として習うだけです。言葉だけでは本当のところは理解できません。
 クラス運営で「みんな仲良く」と暮らす目標を決めることはありますが、それと同じベルです。むしろ「みんな仲良く」の方がわかりやすいので、先生や子供たち自身が評価しやすい「みんな一緒」を基準にしがちです。

 こういう時、「みんな違って、みんないい」と、金子みすゞさんの詩を、わかっているというように出す人がいます。本当にわかっているのでしょうか。
 「みんな違う」ということは、「自分と同じ考え方の人はほとんどいない」、「理解しあえない人も出てくる」という覚悟が必要になってきます。
 わかりあえなくて、心が傷ついても、誰もそれに共感してくれないことがあっても構わないと、覚悟することです。
 その覚悟があって、「みんな違って、みんないい」ならいいのですが。


 話を戻して、「自分がやりたいことのため」は、自分が絶対の存在ですから、
 「相手の意思を尊重する」とは逆方向の考え方です。
 こんな時に多くの人は、
 何をやっていいか、何をやったらダメかわからないから、『心がける』で済ませてしまいます。

 「コーチングを経験する」土壌は学校にはあまりありません。コーチングできる先生が何人かは居るかもしれませんが、そんな先生だけに頼り切っていいわけはありません。
(話を聴くというのは、楽しい半面、秘密を守らなければいけないし、全面的にまずは受け入れる必要があるので、精神的疲労はかなり大きいものです)
 なので、善意やたまたま持っている能力に頼らない仕組みを作ることが必要です。
 そしてその仕組みを使って、コーチングを、学校で、学び、経験して身につけておいてほしいものです。
 学校や日常生活にどういったゴールがあったら、学校でコーチングを経験できるでしょうか。

 学校は、運動会といい、朝礼といい、最近はずいぶん緩くなっていますが、軍隊のように規律を持って上官の命令に従うような仕組みからはじまっています。
 出席を取るのも、管理するのがわかりやすいためでもあります。(よりよい授業内容にするためにも使われていますが)

 という現状はあります。学校で「コミュニケーションがどういうものか理解する」のは、現在は難しいだろうと思われますが、これからの世界では必要なことです。

 パソコン技術を身につけるのと同じ仕組みの『入試』のようなもので、
 コミュニケーションのゴールになるものは何かないでしょうか?
 そのゴールのためにコーチングが必要となれば、誰もが理解して身につけようとするでしょう。

 コミュニケーションの手段として、自分が我慢するだけでなく「相手の意思を尊重する」。
 これを条件反射的にすぐ振る舞えるような人が増えてほしいと願っています。

 それが、「コーチングが普及した」ということです。

 学校で、どのような仕組みにしたら経験できるでしょうか。
 大人の社会で、どのようにしたらその方がお得で成果が大きい、と感じるようになるのでしょうか。
 答えを持っていませんが、できるだけ早く答えを見つけたいものです。

 学校でコーチングを経験する人が増え、他者尊重ができる人が身の周りに増えると、子供たち一人ひとりも安心して生きられるようになり、救われます。
 「こじらせないで、上手に生きられる」ようになるでしょう。

 コミュニケーションは、生や死の瞬間と同じで、自分だけでは何もできません。相手次第です。
 最後はあきらめるしかないでしょうが、何かしら自分の力で整えられるものは整えたいですね。

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