なぜ「女が嫌い」と考える若い女性が急増しているのか
というわけでマシュマロガチ回答のお時間です。今回は「女のミソジニーとどう向き合えばいいのか」という中々に現代的なご相談をピックアップさせて頂きました。
自分は希代の極悪ミソジニストとして世間様からは扱われていますので、男女問わずミソジニー(女性嫌悪)傾向のある読者からのお声を頂きやすいのですが、最近、特に若い女性の間で、女性の女性に対するミソジニーが洒落にならないレベルで増加しているという感触を強く得ています。
もちろん、「女のミソジニー」自体は古くからあった現象です。日本フェミニズム界の象徴とも言える上野千鶴子も「女ぎらい」(2010)という著作の中で様々な形の「女のミソジニー」に光を当てています。そもそも1960年代の性革命の時代からフェミニズムは女性性の超克というテーマを受け継いできたわけで、第2波以降のフェミニズム自体が「女のミソジニー」との闘いであったということすら言えそうです。
ただし、現代における「女のミソジニー」は過去主流だった「女のミソジニー」とは大きく形を変えていると自分は考えています。おそらく相談者様の感じているミソジニーも同様でしょう。だからこそミソジニーの結果として生まれる行動が(第2波フェミニズム的な)「女性性への超克」ではなく「同性への嫌悪」という結果に繋がってしまう。
本稿では現代における「女嫌い」の特徴と、それに女性がどう向き合っていくかというお話について書かせて頂こうと思います。結論から言ってしまえば、女性はようやく「思春期」とでも言うべき段階にまで到達したのです。
旧来のミソジニーは「女は劣等」
ミソジニーそのものが過去から現代にかけて変質している以上、まずは旧来のミソジニーについて語らなければ話は始まりません。旧来型のミソジニーをひと言で表せば「女は劣等である」という強固な信念でしょう。
女性は身体的にも脆弱で、知的能力も低く、倫理観もあやふやで善を志向することができない。弱く、知能が低く、不道徳な存在、それが女であるという女性観は、有史以来世界各地で広く見られたものでした。女性の道徳的劣位性はそのまま霊的な劣位性とも捉えられ、聖職への登用が禁じられたり、聖地と呼ばれる場所が女人禁制となったりしたのはみなさんもご存じの通りです。
こうした女性観は近代が始まって以降少しずつ退潮していきます。まずは宗教の権威性が薄れ何をもって「道徳」となすべきかがしだいにわからなくなり、肉体的な優位性も産業構造が1次産業から2次・3次産業へと高度化していくにつれ重要性が薄れ、知性についても知的産業への女性進出が進むことで女性を単純に劣等と見做すことは難しくなっていきます。
今でも団塊ジュニア世代より上くらいだと、いまだ「女性は劣等である」という旧来型のミソジニーを有している方が少なくないのですが、これは彼らの生きた時代を反映した女性観なのでしょう。
たとえば1990年代前半あたりまでは女性の大学進学率は男子の半分程度であり、それゆえ知的職業に就く女性の数も決して多くはありませんでした。男女共同参画白書の数字を参照すると、1993年(平成5年)の女子大学進学率はおよそ20%程度。男性は40%近くが大学進学に進学していますから、高度教育という面において女性は男性に大きく水をあけられています。
しかし2010年(平成22年)ごろには男女の進学率はほぼ横並びとなり、実業界や学術界で活躍する女性の存在も次第にクローズアップされていきます。南場智子さんが創業した株式会社DeNAがモバゲー事業などで大きな社会的注目を集めていたのもこの時期ですね。2010年前後に学生時代を迎えたY世代(ゆとり世代)あたりから、「女性は劣等である」という類のミソジニーはほとんど消滅していったと言って良いでしょう。今どき真顔で「女は劣等だから社会に出るべきじゃない」なんて言う人間、藁人形でなければフィクションの中ですら想像しづらいところがあります。
ではミソジニーに悩まされる女性は居なくなったのかと言うと、もちろんそんなことはありません。相談を送ってくださった方も同様でしょう。旧来型のミソジニーとは違う、全く新しいミソジニーが生まれていった。それは女性は悪しき権力者である、という新しいタイプのミソジニーです。
メンヘラ地雷女に憧れる令和少女たち
「女は劣等」という旧世代のミソジニーが蔓延する世界において、女性とは一人前扱いされない人間未満の存在ではありましたが、同時に保護の対象として扱われる存在でもありました。
市民社会におけるコモンセンスとしても「男なら女性を守るべき」という規範が繰り返し語られましたし、法制度としても寡婦年金や三号被保険者制度など女性の生活防衛のための制度が様々に張り巡らされました。有事においても女性は兵士として徴用されず、女性が危険な肉体労働に就くことを制限する慈悲的差別まで法制化(労働基準法64条の3など)されています。
「女性は弱者・劣等者であるから守らねばならない」という旧来の女性観をほとんど温存したまま女性の社会進出は実現したわけですが、その結果なにが起こったかと言うと、社会的強者であるにも関わらず、その義務や責任を放擲する女性たち。いわば「悪しき権力者」として振舞う女性が大量に発生したのです。先日批評を書いた映画『バービー』もこうした女性性の負の側面に光を当てた作品でしたね。「劣等者」ではなく「残酷で身勝手な強者」という女性像は、特にここ数年で急速に浸透しました。
複雑なのが、こうした「悪しき権力者性」と「現代女性の理想像」が表裏一体の関係にあることです。
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