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「古文漢文が存在しない民族」の哀しみ
『ブラックパンサー』という作品をご存じだろうか。
米国発祥の、いわゆるマーベル作品群のひとつである。2018年に映画化され、『アベンジャーズ』を超える史上最大のヒットを記録し話題になった。
しかし『ブラックパンサー』を語る上でより重要なのは売上よりもその作品性と社会現象だ。ヴィジュアルを見れば一目瞭然のように、本作は主要登場人物のほとんどが黒人なのである。それまで白人中心で進められてきたハリウッド映画としてこれは画期的なことであり、「黒人主体の映画でも大ヒットを記録できる」という雄弁な先例になった。
結果、瞬く間に『ブラックパンサー』は社会現象と化し、バラク・オバマの大統領就任と比肩して語られるほどの黒人にとっての民族的象徴という立ち位置まで祀り上げられていった。作中に出てくる架空の黒人国家ワカンダは批評家から「アフリカ系アメリカ人にとっての"約束の地"」とまで称され、ブラック・スタディーズの専門家は争って『ブラックパンサー』を学術的分析の対象とし、数多くの分析や批評が量産された。
数年前、そんな噂を聞いて筆者も『ブラックパンサー』とその続編『ブラックパンサー ワカンダ・フォーエバー』を鑑賞してみたのだ。「アメリカでそこまで話題になってるなら観てみるか」程度の軽い気持ちで。
結果、愕然とした。
本当に頭を抱えてしまった。
作品の出来にではない。『ブラックパンサー』を通じて、アフリカ系アメリカ人に古典教養というものが存在しないことを痛感させられたからだ。
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