「性的客体化」論の根底にある「弱者を排除したい」という女の欲望
もはや何度目かもわからないが、またしてもオタク系表現物がフェミニストに燃やされているらしい。
千葉県警が交通ルールの啓発動画に採用した「戸定梨香」なるVtuberの外見が「性的」で「女性蔑視にあたる」との抗議が全国フェミニスト議員連盟から送られ、千葉県警は啓発動画の削除を余儀なくされた。
フェミニスト議員連盟のロジックはいつもお馴染みの「性的客体化」論で、女性を性的な表徴として描くことは「女性とは性的なものだ」というスティグマを促進させるから問題なのだという。
自分がしみじみと不思議に思うのは、「性的客体化」を問題視する論者たちは、「女性の性的自己決定権」の擁護とどのように折り合いをつけているのだろうという点だ。
言うまでもなく女性の性的自己決定権には、女性がどのような服装を選択するかの権利も含まれる。それは当然のこととして、男性の視線を集めがちな性的な装いも含まれている。
実のところ歴史的に見れば「性的な服装を着る権利」はフェミニズム運動の一翼だった。特に「ミニスカート」は60年代以降ウーマンリブのアイコンにされていたほどで、当時の価値観からすれば過度に「性的」で「ふしだら」なこのファッションが女性の権利運動の象徴として見做される時代すらあったのだ。
1960年代のミニスカートの出現は、過去一世紀の中で最高のファッション革命ともてはやされた。古代ギリシャ人やローマ人の伝統的チュニックに由来する、ギュッと絞られたウエストと大きく広がるスカートから女性を解放するものとして、新たな指針を示したからだ。と同時に、それまでタブーとされていた大胆に太ももを露わにしたスタイルは、大きな物議を醸し、意見は真っ二つに分かれた。しかし、やがてミニスカートは、ロンドンの新しい「ユースクエイク」の象徴となり、ウーマンリブ運動のシンボルになっていった。
(引用:ミニスカートをめぐる論争。ニュールックからフィービー・ファイロ、そしてエディ・スリマンまで。)
ミニスカートに代表される女性の性的部位を顕わにするスタイルこそフェミニズムの成果であり、「見せる権利」こそが60年代には盛んに論じられた。それがなぜ「性的客体化」というタームで正反対の「見られない権利」が声高に語られるのだろうか。
言うまでもなく、「見せたい」という欲望と「見られたくない」という欲望は並立しない。
しかしフェミニストはこれらを同時に主張し、驚くべきことにそこに矛盾を感じていないようだ。「悪しき性的客体化」と「女性の性的自己決定権」には明確な一線が存在し、それはあまりにも自明でそこに疑問を差し挟む余地など微塵もない───そのように多くのフェミニストは考えているらしい。
矛盾する二つのメッセージ。これを心理臨床などの分野ではダブルバインドと呼ぶのだが、そこに苦しむ男性は多く存在することだろう。そこで本稿では彼女たちの発する難解なメッセージの読み解き方を綴っていこうと思う。
「見せたい」「見られたくない」
明確に相反するこの二つの主張は何を意味するのか。
端的に言えば「弱者を排除したい」である。
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