「書籍よりもnoteが読まれる時代」はこうして始まった
先日、こんなマシュマロを頂いた。ざっくり言えば「編集者としてのキャリアについてアドバイスがほしい」という内容の相談だ。
たしかに筆者の昼職はウェブ編集者ではあるのだが、恥ずかしながらそのキャリアの在り方はかなり歪だ。高校を中退した後、雑多な肉体労働やサービス業を渡り歩くフリーター生活を何年か続け、その後にひょんなことから某大手ウェブメディアの編集者として働きはじめた。その後はフリーランスほぼ一本である。
なので正直なところ、大学卒業後に新卒就職から総合職に進んだ「まっとうな」人たちのキャリアについて筆者はそれほど多くを知らないのである。新卒就職も経験していないし、転職エージェントも使ったことがない。なので「キャリア相談」というお話だと、筆者はお手上げである。
ただし、「マス・メディアの形が今後どうなっていくか」についてはかなり確度の高い予測がある。筆者が4年前に立てた「出版からnoteへ書き手が大規模に流出する」という予測も正確に的中した。この領域については確信に似た思いがある。
そこで本稿では「出版、新聞、WEBなどを含むメディア業界とその働き方の未来」について、近代以降のマス・メディアの歴史を踏まえつつその業界構造の変遷について概説していこうと思う。それをもってお答えに変えたい。
もともと新聞は個人メディアだった
みなさんは「新聞」と言われて想像するのはどのようなメディアだろうか。
おそらくは毎日配達される、分厚く重ねられた紙に無数の文字が書きこまれた、複数の記者・編集者・校閲者などの手からなる情報メディアを想像するだろう。確かにそれは正しい。本日に至るまで「新聞」とはそのようなメディアだった。
しかし実のところ我々が想像するような「新聞」が主流になったのは19世紀中盤ごろからであると言われている。それ以前の新聞はまずほとんどが日刊紙ではなかった。さらに言うと「複数の記者・編集者・校閲者」の手によるものもごく少数だった。メディアの規模自体が極めて小規模だったのだ。はっきり言ってしまえば原初の新聞は今日の「有料note」に極めて近かったと言って良い。
たとえば合衆国建国の父のひとりであるベンジャミン・フランクリン(1706-1790)は幼少期より兄の経営する『ニューイングランド・クーラント』紙で記者・編集者として働いていた。これだけ聞くと「幼少期から新聞記者!?」とフランクリンの英才に参ってしまいそうだが、その実『ニューイングランド・クーラント』とはフランクリンの兄ひとりが記者・編集者・印刷業者を兼ねる一人経営の出版社だったのだ。「新聞」と言えども枚数はたった2ページ(両面印刷で1枚の紙に書かれていた)で、刊行も不定期だった。完全に現在の有料noteと同じ形である。
こう言われると、『ニューイングランド・クーラント』は影響力のない零細紙だったのではという印象を受けるかもしれないが、本紙はボストンにおける紛れもない有力紙のひとつだった。当局からたびたび発行中止命令を受けたことからもそれはわかる。マス・メディアが生まれていない時代のメディアとはそんなようなものだったのだ。
新聞=個人発行の報道評論パンフレットという常識は、フランクリンとほぼ同時代に生じたフランス革命において多くの革命家が新聞発行者を兼ねていたことからもわかる。ロベスピエールは『憲法の擁護者』紙を、カミーユ・デムーランは『フランスとブラバンの革命』紙を、マラーは『人民の友』紙を、ミラボーは『プロヴァンス通信』紙を、エベールは『デュシェーヌ親父』紙を、それぞれパリ市民に向けて刊行していた。当然、これら新聞の文章はすべて革命家ひとりひとりが執筆している。刊行はむろんのこと日刊ではなく、なにか耳目を騒がす事件があった後に不定期刊行されていたというのが実態に近い。そんなところも現在の有料noteそのままである。
「活版印刷はとっくに実用化されていたのに、なぜメディアがそこまで小規模だったのか」と不思議に思う読者もいるかもしれない。その答えのひとつは当時の物流網の貧弱さだ。なにせ19世紀初頭まで陸運はもっぱら馬車に頼っていたのである。このような時代に「マス」メディアを作るのは難しい。7月14日にパリで新聞を印刷したとしても、それが地方のリヨンやマルセイユに届くのは下手すれば8月に入ってからだ。となれば情報はとっくに古びてしまっている。この時代においては「噂話」の方が「物流」よりも足が速かったのである。
そのため新聞はもっぱら都市のみで生産され、生産地の都市のみで消費される小規模な地産地消スタイルを取らざるを得なかった。パリやロンドンのような政治意識の高い大都市では多くの新聞が発行されたが、地方では新聞を読むことは難しかった。そしてこうした物流網の貧弱さから来る都市と地方の情報格差が、結果としてフランス革命をヴァンデの反乱というひとつの破滅に追いやったのである。
マス・メディアの誕生
新聞が|マス(巨大)・メディアに向けて最初の一歩を踏み出したのは、イギリスにおいて鉄道網が整備されはじめた19世紀中期ごろである。
たとえばロンドンにおいて最初期の日刊新聞である『タイムズ』紙は1785年に創刊された。さすが世界屈指の大都市ロンドンと言いたいところなのだが、この「世界初の日刊紙」にしたところで現在の水準からすると呆れるほどに小規模である。発行部数は1815年時点で5000部程度。『読売新聞』は最盛期には日刊1000万部を超えていたから、その1/2000の規模である。今の基準で言えば地方都市のフリーペーパー程度の規模と言ってよい。
『タイムズ』紙が飛躍的に部数を伸ばしたのは、1830年代から1840年代にかけて鉄道網が爆発的に普及した「鉄道狂時代」においてだ。先述のとおり、都市で発行された新聞が地方で売れない(つまり商圏が小さい)のは物流網が貧弱であるが故に新聞が地方に届いたころには情報が陳腐化してしまうからだ。新聞とは「ナマモノ」なのだ。鮮度が何よりも求められ、馬車で運んでいては腐ってしまう。
それが鉄道網の普及により一気に変化した。高速鉄道によって発行からごく短期間で地方にも新聞が届けられるようになったのだ。となれば当然、新聞の読者は増えていく。ロンドンだけではなくバーミンガムへ、シェフィールドへ、リバプールへ。ロンドンで発行された新聞の販路が広まっていく。
こうして『タイムズ』紙は発行部数を伸ばし続け、1850年代には30年前の10倍である50,000部を突破した。ここまで来ると紛れもないマス・メディアと言えるだろう。巨大メディアが誕生するには、印刷技術だけでなく鉄道網をはじめとする物流網の発達が必要だったのだ。
メディアが巨大化すると何が起こるのか。最も特筆すべきは
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?