わかおの日記12
今日は高校時代の友人とキャッチボールをした。彼はぼくの友人の中でも、東京に残留した唯一の人間だ。ぼくと彼は机を並べ、ともに東京大学を目指し、ともに敗れ去った深い仲である。そんな彼と卒業以来初めて顔を合わせたので、とても感慨深かった。
田無には、平時は公園となっている遊水地がある。そこでは僕たちのように暇を持て余した大学生や、草野球に燃える中年たちが、思い思いのスタイルで白球と戯れている。サークルが活動中止となって以来、およそ1か月ぶりに稼働する肩をいたわりながら、ぼくはキャッチボールを始めた。
ぼくがいちおう高校球児(軟式野球部だが)だったころの話をしよう。高校1年のころは、そこそこ速球派のピッチャーとして将来を嘱望されていた。野球をするのが楽しかったし、大真面目に自分はプロ野球選手になれる、いやなるべきだと思っていた。しかし、ステロイドを打たれた指定暴力団ブルドックのような風貌の監督に半ば恐喝されながら酷使された結果、肩を壊してしまった。その結果野球に対するあらゆる情熱を失い、一時は野球部を退部するも、先輩たちの感動的な説得により復帰した。
それ以降はいままでないがしろにしていたバッティングのほうになぜか目覚め、4番バッターとしてそれなりに活躍した。軟式野球界の二松学舎と呼ばれている駒場東邦高校のエースから、スリーベースヒットを放ったこともある。ちなみに守備や走塁はさっぱりだめであった。やはり天性のものなのであろう。守備や走塁の才能が少しでもあったなら、こんな人間にはなっていないような気がする。守備や走塁が得意な人間は、社会生活に向いている人間だと思う。
部活を引退し、受験勉強の合間に筋力トレーニングにいそしむようになってから、僕の肩の痛みはなくなった。それどころか、現役の時よりいいボールが投げられるようになっていた。ぼくはその皮肉な運命を呪いながらも、もし東京大学に合格したら、野球部に入部し、神宮球場で一旗あげられるかもしれないなどと夢想していた。
しかし現実は厳しいものである。夢破れたぼくは、あの清原和博の息子とともに慶應義塾大学に入学することになったのだ。これではとても野球など続けられない。弱小野球サークル、慶応ロイヤルズの一員として、週末の河川敷で野球を楽しむのが精いっぱいであった。
そんな悲痛な思い出が野球にはあるものの、やはりキャッチボールは楽しいものである。そこそこ速いぼくの全力投球を、身を挺してキャッチしてくれる友人に感謝しながら、ぼくは彼とキャッチボールをした。かなえられなかった夢は、余計に眩しいものである。ぼくはいまだに、高校野球の試合が写ると、テレビのチャンネルを変えてしまう。
午後は友人と映画「2001年宇宙の旅」を見た。所々面白い場面はあったものの、縮めれば半分くらいの尺に収まりそうな間延びした映画であった。やはり物語のテンポというのは重要だ。
追伸 高校野球と同じ理由で「ドラゴン桜」も見れないので、ぼくの前で「ドラゴン桜」の話はしないでください。
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