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「本物のマリア様」の呪い

私は幼い頃、あるキリスト教の幼稚園に通っていた。
クリスマス会でイエス•キリストの生誕劇をやる時に、どうしてもマリアになりたかった。だから、練習の時はいつも、マリア役に徹していた。
本番の役を決める時は挙手制だった。
マリアに手を挙げたのは、私と、もう1人の女の子だった。
私は泣きながら、彼女にマリア役を譲った。
今思えば、大好きだったセーラームーンごっこでも、一度も自分の本当に好きなキャラクターにはならなかったし、戦隊ヒーローごっこでも、ヒーローじゃなくて、ヒーローを援護する指揮官の役とか、結構地味なことが多かった。

私は幼い頃から、自己主張が苦手だったのだ。

それでも、マリアの時にみんなの前で最後に抵抗したのは、私にしては頑張ったのかもしれない。
しばらくして、私が彼女に役を譲ったことに対して、「wakaちゃんは本物のマリア様みたいだ」って言ってくれた子がいた。
とっても嬉しかった。私の優しさを気づいてくれる人がいたんだって思うと、心が温かくなった。

でも、大人になった今、私は本当にマリアである必要があるかと聞かれると、NOだと答える。
聖母マリアが実際にどんな人物かなんて、覚えてないし知らないけれど、心優しい人の比喩ではあった。けどそれは、自分の気持ちや心を犠牲にしてまで人に対して優しくするものなのだろうか。

子供時代、「本物のマリア様みたい」に生きることは、私のある種の指針となっていたように思う。
そして私は、それを何かを譲ることが多く、利他的な視点を持つ人間として成長した。
それが、一種の自傷行為だったのかもしれない。
我慢して、押し殺して、相手を立てる。次第に自分の意見が言えなくなる。人の顔色を伺うようになる。

純粋に嬉しかった気持ちから、こんなに残酷な結果になるとは思わなかったな。
でも、そろそろ呪いから解き放たれたいし、本物の意思を持ったマリアとして、生きていきたい。

皆さんはそういう経験、ありますか??
幼少期の経験って、結構自分の人格形成に関わるなって思った、今日この頃でした。

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