文化の発展のためにAI無断学習を無制限とするべきなのか

この記事のまとめ

  • 著作権法の目的は文化の発展

  • 自由競争が「儲かる」文化を発展させ「儲からない」文化を衰退させる

  • 著作権法は著作物を「儲かる」ように保護する

  • AI無断学習は著作物を儲からなくする側面がある

  • AI無断学習は競争を激化させ文化を発展させる側面もある

  • 発展を続けるためにはうまいバランスが重要


イラストAIなどの無断学習は現在は法律的に問題ないとされている。しかし絵師の中には無断学習されたくないという人も少なくない。無断学習を無制限とするべきかどうか、それは多面的な問題で、とても難しい。

そこでこのnoteでは、自由競争による「文化の発展のために」という面からのみ見たときに、どう考えられるのかについて分析する。

その中で「儲けられる」かどうかについて強調して述べるが、儲けることがクリエイターやそれを支える人の総意ではないことには、留意していただきたい。

あくまでも、「自由競争」という舞台設定の中で単純化された「文化の発展」のみを考察していると考えてほしい。

著作権法

著作権法の第一条は、著作権法の目的を示している。それは以下のようなものだ。

第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。

著作権法|e-Gov法令検

文化の発展に寄与することが著作権法の目的であり、その手段として著作者等の権利の保護を図っている、と読み取ることができる。主の目的は文化の発展なのだ。

ではなぜ文化の発展のために著作者等の権利の保護が必要なのだろうか。それを知るために、まずは著作物ではないものでの文化の発展を見ていく。

自由競争による文化の発展

自由競争社会では様々なものがより便利に進化してきた。耕作用のトラクターなどが発展し効率的に農作業ができるようになり、工場の生産ラインはより無駄のない形へと進化していく。時にはより質のいいものが作られ、社会に広まる。

こうした効率の向上、質の向上の動機は様々あるのだが、その中でも万人に理解されやすい動機は「儲かるから」だろう。同業他社より作業を効率化することで儲けを引き上げ、質を向上させることで販売数を伸ばす。これによってより儲けることができるのだ。

このようにして「儲ける」ことを動機に、様々なものが便利に、効率的になり、質が向上してきた。これが自由競争による文化の発展だ。

もちろんこの自由競争による発展だけが、人類の文化の発展のすべてではない。むしろ最近百何十年だけにしか寄与していないし、その百何十年の発展すべてに関与したわけでもない。

それでもここ最近の技術発展の速度を鑑みると、自由競争は文化発展に対して大きな役割を果たしてきたことは、間違いないと思われる。

自由競争による文化の衰退

自由競争によってすべての文化が発展してきたわけではない。いくつかの文化は、自由競争によって衰退した

先の章で、「儲ける」ことを動機に文化が発展したと話した。これは逆を言えば、儲からないことは発展しないということだ。発展しないどころか、儲かる事業へ人員や資材が移動するため、担い手や施設が減っていき衰退する。

たとえば馬車に関わる文化は、自動車や鉄道の発展で儲からない文化になってしまい、衰退していった。馬車を動かすために馬を操るノウハウ、馬車に適した馬を育てるノウハウなどは、この衰退とともに消えてしまったかもしれない。

しかしこの例では、移動という文化は発展している。馬車という文化がなくなったことで、文化全体が貧しくなったと思うことはあまりないだろう。

著作物の自由競争と著作権

著作物に関しても、我々は自由競争による発展を信じている。著作物の製造によって「儲ける」ことができるのなら、著作物も自由競争に乗ることができ、それによって圧倒的な発展を望めるはずだ。

逆に著作物を製造することで儲けることができないのならば、著作物の文化は衰退する。

では著作物の文化は、衰退してしまってもいい文化だろうか。著作物の文化が衰退してしまえば、我々は新しい漫画を読むことができなくなり、新しい音楽も聴くことができない。ずっと過去の名作にすがり、それを消費し尽くしてしまえば何も残らなくなる。そんな世界になる。

それは断固阻止しなければいけない。少なくとも私はそう思う。毎週新しいアニメを見て、わくわくしていたい。著作物の文化が衰退すれば、きっと文化全体が貧しくなったと感じる。

つまり著作物の文化発展はどうしても確保しなければならない。そのために、著作物で儲けられる環境が必要なのだ。

しかし著作物というのは、煎じ詰めればただの情報である。情報というのは、印刷や電気通信によって無制限に複製できる。複製している人が著作物を製作した本人なのか、そうでないのかという制約ももちろんない。

複製できるために、著作物を製作した人が一度社会に発表してしまえば、誰でもそれを複製し手元に置いたり、他者に売ったりすることができるようになってしまう。

無制限に複製できるのだから、誰も購入する必要性を持っていない。こうなると、著作物を作った人はその著作物を売ることができなくなってしまう。つまり著作物で儲けることができないのである。

この端的な例が、漫画村である。誰でも無制限に複製、送信できる特性を利用して、誰かの著作物である漫画を公開していた。それによって売られている漫画を購入する人は減り、出版社や作者が儲けをあげられなくなった。

そこで「儲けられない」ものを「儲けられる」ようにしたのが、著作権である。著作権によって外的に複製の制限をすることで、著作物で儲けられるようにしたのである。漫画村の規制にも、この著作権による制限が用いられた。

無制限のAI無断学習は自由競争にどんな影響を与えるのか

無制限の無断学習は、著作物の市場を、「儲けにくい」方向に持って行くと同時に、競争を激化させる方向にも持って行く。前者はそれまで話したように著作物文化の衰退につながり、後者は文化の発展につながる。個別に見ていこう。

AI無断学習によって著作物が儲けにくくなる

AIの発展によって、作業が効率的に行われるようになるため、手作業で作られる著作物は儲けにくくなる。そのため手作業の著作物は競争に乗れなくなり、衰退していく。これは馬車が車に取って代わられたのと同じようなことである。

しかしそれ以上に、もっと根本的な部分から無断学習AIは、著作物で儲けにくくなる環境を作る

無断学習によって、新しく世に発表されたアイデア、表現技法は瞬く間にほかの人に吸収され利用されるようになる。それによって、誰でも同じものが作れるようになる。

これは決して人の手による著作物のみが儲けにくくなることを表していない。AIを使って作成する著作物でも、同じように働く。

誰もがすぐにまねできるのならば、わざわざその著作物を購入する理由がない。これによって、著作物はどんどん儲けにくくなる。

これに対して、AIで学習するのにだって時間やノウハウが必要なのだから、誰にでもできるわけではないという主張もあるだろう。それももちろんだ。

しかしほかの絵を描くなどの技術に比べて少ない鍛錬で実行できること、AI学習の手法はある程度確立していることは納得してもらえると思う。それは今後も加速し、今以上に誰もが簡単にAI学習を使用できる未来が来ることは想像に難くないはずだ。

印刷だって昔は活版を作る手間も技術も必要だった。それが今では誰でも自宅のコピー機で複製でき、ファイルをコピペでデスクトップに移せる。

AIも同じように誰でも使えるようになり、複製と同じように著作物の儲けを脅かす未来が来るだろう。そうなった未来では、著作物の文化は衰退していくだろう。

AI無断学習によって競争が激化する

先ほどはかなり先の未来まで含めた話をしたが、現状ではそちらよりも、競争の激化のほうが影響が大きいように感じる。

AI無断学習にまだ技術と手間が必要であるために、そのAI学習技術の優位性を確保しながら、AIによる作業の効率化が見込めるからである。

これによってそれまで技術の習熟に必要だった時間を著作物の製作に当てられる。効率が爆発的に高まるために、今度は質で勝負が起る。すると自由競争によって、どんどん質と効率が高められ、文化が発展するのである。

AI学習が無断で可能なために、許可を得る時間、費用などが不要になり、様々な場所で活用される。このフェアで広い利用というのも、競争の激化にとってはプラスに働くだろう。

このようにAI無断学習は、近視眼的には、あるいはある程度の儲けにくさとのバランスの上では、競争を激化させ文化を発展させる方向に働く

AI無断学習は著作物の文化発展にプラスなのか

以上のように、AI無断学習は著作物の文化発展にプラスになる側面とマイナスになる側面がある。プラスになる方は直近で働き、マイナスになるほうは将来的に働いていくのではないかと考えられる。

このAI無断学習による競争の激化というプラスの側面を大きくしつつ、著作物が儲からなくなるマイナスの側面を小さくできるのならば、それが一番いいだろう。

しかしこの二つは表裏一体で、このバランスをとるのは非常に難しいと思われる。そしてバランスをとれなければ、底なしにマイナスへと転がっていくだろう

どこでバランスをとるのか、どこが一番ちょうどよく文化発展につながるのか、そこを見極めて法律などを整備していく必要があると考えられる。

おまけ:もう著作物の文化発展は必要ない?

このnoteでは著作物の自由競争による文化発展を重視する立場で話を進めた。しかしもしかしたら、もう著作物の自由競争による文化発展は必要ないのかもしれない。そのことについて、おまけとして軽く話したい。

文化発展を願う理由に、過去の著作物だけでなく新しい著作物を見たいという動機があった。その動機からしてみれば、AIによって新しい著作物をほぼ無限に生産できるようになったのならば、もう著作物の文化発展は必要ないということになる。我々は自由に新しい作品を享受することができる。

さらに、なにも自由競争だけが文化発展に寄与するわけではない。我々がただ純粋に何かを作りたいという思い、少しでも楽をしたいという思い、何かを人に見せたいと思う気持ち、そういったものからも文化は発展する。

たしかに儲かることに比べれば、そうした個人の気持ちだけのものに人手を割くのは難しい。しかしAIの手助けによって少ない労力で著作物を作れるようになったのなら、儲けられること以外に割けるわずかな人手から著作物を作ることができるようになるだろう。

実際、ここ一年弱のAIは、確かにお金儲けのためにやっている人も一部はいるものの、ただの趣味でやっている人たちによって発展した部分も大きい。この功績を、無視してはいけないだろう。

著作物を自由競争から下ろして、元の素朴な形での文化発展に委ねるというのも、一つ悪くない手なのかもしれない。

注意と結びの言葉

以上はあくまでも、著作権の理念である「文化の発展に寄与する」を出発点に、自由競争こそが文化の発展と衰退の大きな原動力だという仮説の下に話した。出発点と仮説を否定する場合、全く異なる話になるだろう。そこには注意していただきたい。

またこれはとてもマクロな領域における話であるということも、加えて注意していただきたい。社会全体としてどのように文化が発展するのか、そうした話であり、決して個人に寄り添った話ではない

マクロな領域の正義によって、ミクロな主体である個人を罰するのはナンセンスである。その人にはその人の人生があり、感情がある。ないがしろにされれば苦痛も感じる。それを無視していけば、どんなにマクロ的にいい社会でも、誰も幸せになれないディストピアである。

あくまでもこれは一つのものの見方だという点に注意して、持ち帰っていただければと思う。

また同様の生成AIの問題を、産業革命の類推という別の方面から考察したnoteも公開している。そちらももし時間があれば、覗いてもらえたらと思う。

最後までよんでいただいた方には、感謝の気持ちを伝えたい。またここまで読んだ労力に見合うだけのことを得てくれたのなら、これ以上なくうれしい。

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