遊隙

 ここ一帯はずいぶんと人がいないものだから、やれやれ近頃の便の良い交通もなく、古代から残された列車というものをひっぱりださなければならない。アカシックログの幾億もの情報の中から列車の動かし方を引き出しどうにか動かしてみたのだが、一度動けば勝手に進んでくれるので、シートにゆったり腰をかけ揺られていた。ガタン、ガタンと、レールの遊隙に揺れる音がする。しだいに電波が弱くなり、アカシックログとの接続が弱くなる。普段アカシックログのそばにいるだけに離れることは随分妙で、ガタン、ガタンという音と相まってしだいに人格が溶かされていくような、孤立した霧中に放り出されるような感覚を覚えた。思えばなぜここに来ようとしたのかさえも、曖昧に感じた。

 しばしの後に列車は止まった。ゆっくりとシートを立って列車から降りると、その駅には一人の男が居た。
「やあ。こんなところに人が来るなんて、珍しいね。」
男はすっと立ち上がりこちらに手を振った。
「たまの休暇ですから、ちょっと遠くにでもと。」
「そうか。なら俺がとっておきのところに連れてってやるよ。」
「お気遣いはありがたいのですが、私もだいたい行きたいところは決まっているので。どこになにがあるかはわかってますし。」
それとなく断ったつもりだった。しかし男は食い下がってきた。
「まあまあ、ここに長く居る俺のほうがモノを知ってるに決まってるんだから、遠慮なんかせずについて来いよ。」
男はそう言って私の腕を掴んで引っ張り出した。男の力は思いの外強く、抵抗すれば腕を痛めそうだったのでとりあえず同意する振りをした。「おーそうだ、名前を言ってなかったな。俺は草堂ケンイチだ。見ての通り荒屋に住んでる流れ者さ。あんたは?」
「隆三、高森隆三です。」
「リュウゾウか、よろしくな。」

「そういやリュウゾウ、お前は新型か?見る限りそんな感じだが。」
ケンイチに連れられて歩いている途中、そんな質問をされた。
新型、それと旧型。この世界には2タイプの人がいる。
新型とは集合知とも言えるアカシックログに接続し、そこで記憶の処理などを行う人たちのことだ。学んだ情報は共有されるため、今ではもうほとんど学習せずともあらゆることができる。列車を動かしたのもそのおかげという具合に。
それに対して旧型というのは、アカシックログを活用せずに自らの内部メモリのみに頼っている人たちだ。自ら学習をしなければならず、知識もかなり限られる。アカシックログの利用可能域が狭い頃は重宝されたものだが、今ではこんな山奥でも電波が届くのでほとんどメリットらしいものはない。
「ええ、まあそうですね。新型です。」
それとなく答える。
「俺は旧型なんだ。あそこの列車あったろ?あれの使い方も若い頃本で必死に学んでな。大変だったな。お前さんたちはアカシックログで一発だろ?」
「そうですね、おかげで今ここに居られるわけで。」
「全く新型はいいよな。でもさ、俺は必死に学んで、それで動かせた時すごく嬉しかったんだよな。学ぶ楽しさって言うのかね、わかるかい?」
ああ、またこれだと心底うんざりした。旧型はいつもこうだ。一言目には努力して学んだっていう武勇伝、二言目には学ぶ楽しさだのなんだの。そんなもの必要ないじゃないか。目的さえ達成できればいいし確実にできるほうがよっぽど偉い。そんな恨み節のような言葉たちが押し寄せてくるが、ぐっと抑えて笑顔で答える。
「いいえ、もう学べることなど残っていないようなものなので。」
「それはそれで少しかわいそうかもしれないな。」
ケンイチが漏らしたその言葉の意味を、隆三は理解できなかった。

 静かな木々の間隙を、二人で歩いていた。なにもない、ただの山、隆三の目にはそう映っていた。木とは緑色の葉というものを茂らせる生物で高く成長するだとか、川は水が流れ落ちる道だとか、苔は岩に張り付く緑で小さい生物だとか、初めて目にするものではあってもアカシックログの説明通りなので、特にこれといったものを感じなかった。
すると突然ケンイチが足を止めた。
「ここだ。ここが俺のお気に入りの場所。」
やはり隆三にとっては物珍しいものでもなかった。ただの滝だった。大きめの滝ではあるが、それ以上に特徴は無いようだった。
「ここが、ですか?」
隆三は戸惑い気味に尋ねた。
「ああ。目を瞑って、じっと感覚を研ぎ澄ませてみろ。」


 そう言われるので、感覚を研ぎ澄ますというのはよくわからないが、とりあえず目を瞑ってみた。
「そう、目を瞑ってじっと音を聴くんだ。滝のザーっと落ちる音に紛れて、鳥の声だとか、葉っぱが擦れる音とか、聞こえてくるだろ?それと、滝から上がった細かな粒子が肌を撫でる気持ちよさ、わかるかい?」
隆三はその一言一言をゆっくりと咀嚼してみた。すると突然、すさまじい量の情報が流れ込んでくるのを感じた。
言われた通り滝の音に混じって微かにヒョロロウといった鳴き声が聴こえてくる。木がザワザワと揺れる音が聞こえる。それに合わせて、ちょっと遅れて、ほのかな霧状のしぶきが、顔にかかったり、引いたり、涼やかに、爽やかに、飛んでいた。それだけでなく濡れた地面の匂いや木の匂い、水の匂いさえも感じ取れた。

「はは、どうだすごいだろう。おうそうだ、こっちに来てみろよ。」
ケンイチがそう呼ぶので、一旦目を開けてそちらに行った。
「ほら、見上げてみろ。虹だ。」
嬉しそうに言うケンイチの視線の先に目をやった。
驚いた。たしかにそこに虹があったのだ。当たり前と言えば当たり前だ。水滴があって、仰角に対して約42°で日が差しているのだから。しかし健三は滝を見た時、虹があるかもだなんてちらりとも思わなかった。だから驚いた。虹は虹、滝は滝でしかなかったのだ。

 隆三はその一つ一つに感動し、そこで音や感覚やそういったデータをなるべくそのままに共有したいと思った。取れうる限りのデータを書き起こし、アカシックログへのアップロードを試みる。しかしあまりにもデータの量が多いと、拒否されてしまった。うー、と隆三は落胆の唸りを発する。それに気付いたケンイチが声をかける。
「どうしたんだい?」
「ええ、この感動を残しておきたい、共有しておきたいって思いまして、アカシックログに上げようと思ったんです。でもデータが大きすぎるからアップロードできないって。」
「あはは、そうかそうか、データのアップロードには上限があるんだな。」
ケンイチは愉快そうに笑う。隆三はむっとした。
「笑い事じゃないです。せっかく新しいことが学べたのに、これでは…」
隆三は自分の言葉にはっとした。学ぶことなんてなにも意味ないと、もう学ぶべきことなんて無いと思っていたのに、この経験を嬉しく思っている自分がいる。そのことに驚いたのだ。そんなことは気にも止めず、ケンイチは言った。
「アカシックログで知った情報だけじゃ分からないこともある。百聞は一見に如かずなんていうのはよく言ったものだよな。」
一人悦にいるケンイチに隆三は言う。
「でも、情報は共有しなければ…」
その言葉を遮りケンイチは言う。
「他の人たちにも、こうやって経験する機会を与えてやったほうがいいんじゃ無いのか?お前がさ、今日俺がやったみたいに他の人に教えてやればいいじゃん。そうやって伝えていけばさ。」
「でも…私はアカシックログに記録しなければ今日のことも忘れてしまう…。この感動をあなたたちのようにうまく残すことができないのです。」
少し悲しげに訴えた隆三に、ケンイチは近寄り優しく声をかける。
「俺だって完璧に感動を覚えているわけじゃない。ただ楽しかったなとか、よかったなとか、それくらいざっくりしたものだ。でもここに来ればまたその喜びを体験できる。思い出せる。それで十分じゃないか?」
その言葉に隆三は目を丸くしたが、ゆっくりとその意味を飲み込み、ケンイチにそっと微笑んだ。


「『木々のさざめき、鳥のさえずり、滝の讃美歌。これらの機微、重なり、調和は記録しきれないほど美しく、またここに来たいと思えるほど楽しい時間であった。』…記録完了。」

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