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まえがき
変化が激しい時代
インターネットが存在するようになって、世界中の人と簡単につながることができるようになりました。今、私たちの生活でスマホは、欠かせないアイテムです。デジタル先進国として注目されている中国では、キャッシュレス化がどんどん進み、お財布を持たなくてもいい生活になってきていると聞きます。
その一方で、少子高齢化が進む日本、すでに40%超の私立大学が定員割れという事実もあり、子供対象の習い事であるピアノ教室は、集客が大変になってきています。また、A Iの進化により、10年後、20年後は、今ある職業の一部はAIによって取って代わられてなくなるだろうと言われています。
近年、女性の社会進出がすすみ、共働きの家庭も増えました。しかし、我が国日本は、世界経済フォーラム(WEF)による男女格差の度合いを示す「グローバル・ジェンダーギャップ指数」は、149カ国のうち、日本は110位、フランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、カナダの7つの先進国「G7」の中では、最下位(2018年)となっています。ジェンダーギャップによる立ちはだかる現状、女性が働き、子育てをする環境は、解決しなけらばならないたくさんの問題点があります。子供が、「ピアノを習いたい!」と言っても、共働きの日々忙しい家庭では、子供の送迎をして、ピアノ教室に通わせるということは、とても困難な状況にあります。(詳しくは、第2章で)
オンラインレッスンは、教える側、教えられる側の悩みを解決する、今の時代にあったお教室の在り方です。
18才で単身渡欧
私は、17歳、高校3年生の時に
「今、行かないと一生後悔するよ」
という心の声が、大学受験の志望校を決断しなければならない私に、うるさいほど囁いてきたのです。日本の大学には進学せず、思い切って高校卒業後、単身ヨーロッパにある人口400万人の小さな国、クロアチアへ音楽留学することにしました。
もともと、海外の映画やドラマ、音楽は大好きで、外国語を話せるようになることや、海外に住むことに憧れはありました。でも、一番の理由は環境を変えたかったからです。
今は、旅番組や、バラエティー番組などでも、クロアチアはヨーロッパ屈指の美しい観光地として、テレビで取り上げられ、日本からの観光客も増え、ガイドブックもたくさん出版されています。私がクロアチアへ渡った当時は、ユーゴスラヴィア戦争後、十数年しか経っておらず、クロアチアについて知りたくても、ガイドブックはありませんでした。クロアチアの言語であるクロアチア語を勉強しようと思っても、学べる教材がありませんでした。言語も分からず、海外旅行は高校の修学旅行1回の経験だけ。行って、何が待っているか分からなかったけれど、とにかく心の声に従ってみようと、高校卒業後に単身渡欧。
なぜ、その当時マイナーだった国、クロアチアへ音楽留学することに決めたのかをここで書くと、とても長くなってしまうので、後でそのことについては詳しく触れていきたいと思います。
留学先のクロアチアで、私の人生に一生影響を与える「恩師」との運命的な出会いがありました。恩師のおかげで今、夢だったピアニストになることができました。
11年のクロアチア生活に終止符を打ち、「次世代のピアニストを育てていきたい」「私がクロアチアで培った経験を日本で活かしたい」という強い使命感にかられながら、2014年に完全帰国しました。
その道のプロに教えてもらう
帰国後、すぐに自宅でピアノ教室を開業。
音楽大学では、ピアノの弾き方、音楽について学べても、音楽でどうやって食べていくか、起業の仕方、ビジネスについては教えてくれません。ピアノ教室を開業しても、はじめは、生徒を集めるのにとても苦労しました。
演奏は、自己流で練習していても、上達しません。私がクロアチアで恩師に出会わなかったら、ピアニストになれなかったように、ビジネスでも同じようなことが言えます。自己流で集客しても、人は集まりません。その道で成功しているプロの方に教えてもらうのが一番の近道です。
SNSでの発信の仕方や、集客の仕方などをその道のプロに教えてもらい、ビジネスについて勉強しました。また、目先の集客の悩みを解決するだけではなく、私が経営のことを学び、これから育てていく生徒たちにも、音楽と一緒に経営のことも後々教えることができたらと思ったからです。
今、ピアノ教室開業から、約5年が経ち、お教室は満室といえるほど生徒が集まってきています。
楽器を教えるのに、「実際会ってレッスンをしなければ成り立たない。」「生の音を聴かなければ教えられない」とおっしゃる先生もいらっしゃると思います。
近年、インターネットがなかった時代では考えられなかったことが、次々に可能になってきています。(詳しくは、第3章で)
2020年には、インターネットの通信速度が5G(ファイブジー)になるとまで言われ、テクノロジーは、ピアノ教室のあり方を変え、人に教える仕事の働き方に自由を与えます。
本書は、オンラインレッスンについて書いていきます。
第1章では、音楽家たちの事情について
第2章では、今、私たちはどのような時代を生きているのか
第3章では、実際にオンラインでどのようなことができるのか
第4章では、オンラインレッスンの実践編
となっています。
「今すぐ始められるオンラインレッスン入門」の読者様に特典動画のプレゼントを用意しています!
第4章の実践編について動画で解説しています。また、書籍でお伝えきれなかったことも収録! ぜひ受けとってくださいませ。
※こちらから登録すると特典動画が届きます。
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(ご登録完了メール後、すぐに動画が届きます。)
現在、何か人に教える仕事をしている、または今後、何か人に教える仕事をしたいと思っている方は、本書を最後まで読んで、何か一つでもオンラインレッスンを始めるためのヒントを得られたのならば、すぐに今日からほんの小さなことからでもいいので、行動を起こしていきましょう!
一人でも多くの人に、より自由な働き方を手に入れて欲しいと願っています。
いますぐ始められるオンラインレッスン入門
目次:
まえがき
第1章 音楽家の事情
パトロンがついた時代
モーツァルトのように死にたくない
芸術を極める=貧乏ではない
芸術家の勝ち組になるには
場所の確保が大変
時間とお金の投資が半端ないクラシック界
音大卒業したらどうやって食べていく?
第2章 時代は変わった
インターネット 5G(ファイブジー)の時代へ
スマホの時代
AIの時代
共働きの時代
Youtuberの時代
コミュニティの時代
インターネットで集客する時代
急速に進む少子高齢化
第3章 これからはオンラインで教える時代
世界最大級のオンライン学習サイトUdemy
教育のオンライン化(khan academy)
オンラインスクール
オンラインサロン
オンラインでパトロンを見つける(クラウドファンディング)
ショパン国際ピアノコンクールもライブ配信
オンラインで習い事
第4章 実践編
情報発信しよう
Youtubeを活用しよう
まずは体験レッスンへ
Zoomで世界と繋がる
オンライン決済システムPaypal
教室経営のためのオンラインミーティング活用
オンラインレッスン を始めるのに必要なもの
おわりに
【著者略歴】
ヴォンドラ髙橋若菜(たかはしわかな)
仙台市出身。18歳で単身クロアチアへ渡る。イノ・ミルコヴィッチ高等音楽院(モスクワ音楽院提携校)を経て,クロアチア国立ザグレブ音楽大学卒業。同大学研究科修了。
リストの演奏法を直系で受け継いできた最後の体現者であるマリーナ・アンボカーゼ女史の薫陶のもと,9年間研鑽を積む。現在、日本ではリスト・ジロティ楽派奏法の後継者であるただ一人の指導者。
クロアチアをはじめ、ヨーロッパでの演奏活動は、「深い感銘を与える演奏」「成熟したピアニズム」とメディアでも取り上げられ、好評を博す。11年間のクロアチアでの研鑽、音楽活動を経て、2014年に帰国。
千葉県八千代市でマリーナピアノスクールを主宰し、3歳から大人まで後進の指導にあたり、コンクールで多くの受賞者を輩出している。日本最大のピアノコンクール、ピティナピアノコンペティションの審査員も務める。主宰しているピアノ教室は、海外からのオンラインレッスンの要望にも対応し、常に満室である。
現在は、オンラインを使った自由な働き方を広めるべく、オンラインレッスンや教室経営についての講座主宰。
第1章 音楽家の事情
パトロンがついた時代
インターネットが存在しなかった時代、音楽家、芸術家たちがどのように芸で食べてきたのでしょうか。
14世紀にイタリアで始まったルネサンス。フランス語では「再生」「復活」を意味し、文化を復興しようとする文化運動が起こりました。
そもそも、「芸術」「芸術家」という概念はいつ頃生まれたのでしょうか。
15世紀ごろまで「芸術」「芸術家」という概念自体、存在しなかったのです。画家や彫刻家は、教皇や貴族、あるいは裕福な商人たちに作品を依頼される職人でした。
レオナルド・ダ・ヴィンチは「絵画は精神の業」であると語り、ルネサンスの大芸術家ミケランジェロは「画家は手で描くのではなく、頭で描くのだ」と述べています。15世紀以来の芸術家、芸術理論家たちにより、絵画の社会的地位向上への努力により、次第にただの本来無名の存在である職人から、社会の尊敬を受けるにふさわしい芸術家へと変わっていったのです。(高階秀爾著 芸術のパトロンたち)
音楽の分野でも、この時代に活躍した作曲家たちが、後に発展していくクラシック音楽の土台を築きました。
優れた芸術家の力量を認め、評価し、その芸術家に活躍の場を与えたのが、芸術への理解と財力を兼ね備えた「パトロン」です。
この時代、パトロンの経済的支援なしでは、「芸術家」の活躍はありえません。
ルネサンス期のパトロンといえば、メディチ家ですが、私はクロアチア在住時、ルネサンスの中心都市であったイタリアのフィレンツェを旅行することがありました。
当時の最高権力者であったメディチ家の偉大さを目の当たりにしました。街のいたるところに、メディチ家の紋章を見かけ、フィレンツェの街の中心広場、ヴィッキオ宮殿前にあるシニョーリオ広場には、メディチ家がパトロンであった巨匠たちの作品が並びます。中でも、目を引くのは、宮殿前にある巨匠ミケランジェロ代表作でもあるダヴィデ像です。街全体が美術館のような街、私は一気にフィレンツェの虜になりました。
現代でもメディチ家の名は、大事業家の間では神話家されています。億万長者が競い合って慈善活動や芸術パトロン・コレクションを展開してきたアメリカでは、「メディチ」の名は神話的響きを持って語られ、「現代のメディチ」になることが大実業家の夢として語られています。
メディチ家の歴史は、十三世紀から十七世紀までの約500年に渡る約半世紀という長さです。
中でも、特筆すべき当主は、ロレンツォ・イル・マニフィコで、幼い頃から完璧な「君主」教育を受け、哲学や文学から建築、美術、音楽まであらゆる学芸に通じる多芸多才な知識人でした。「一種の万能芸術家」(A.シャステル)であり、「理想的」な大パトロンとなってフィレンツェの芸術文化の発展に絶大な寄与をなし、「マニフィコの黄金時代」は早くから神話化されました。(森田義之著 メディチ家)
職人ではなく、「芸術家」として、作品で自己主張することが認められるようになった時代です。
教養があり、芸術に理解がある財力者なしでは、芸術の発展はありえなかったのです。
歴史をさかのぼると、インターネットで自由に個人が情報発信できる「今」を生きる私たちには、どれだけビジネスチャンスがあるのかということを教えてくれます。
モーツァルトのように死にたくない
18世紀に活躍したあの「天才」モーツァルトについて少し書きたいと思います。
私の父は、クラシック音楽が大好きでした。私がまだ母のお腹の中にいる時から、毎日のようにクラシック音楽を聴いて育ちました。家の中でも移動中の車の中でも、とにかくいつもクラシック音楽が流れていました。
ピアノを始めたきっかけも父のクラシック音楽好きからでした。
中でも、父の大好きな作曲家は、バッハとモーツァルト。
父は、モーツァルトの生涯を描いた映画「アマデウス」を見るのが大好きでした。特に最後のシーンを好み、モーツァルトが死にそうになりながらレクイエムを書くシーンを繰り返し繰り返し見ていました。ちょうど家族団欒の夕飯時に、映画のそのシーンを見るので、私も何度も一緒に見ることになったのです。
「天才モーツァルト」と今日も絶えず賞賛され、偉業を残したモーツァルトですが、晩年、経済的に苦しい生活をしていたモーツアルトは、大作曲家らしく厳かな葬儀はできませんでした。最後のシーンで、レクイエムのラクリモーサがバックミュージックに流れ、雨の中、集団墓地に他の誰かも分からない遺体と一緒に無造作に投げ込まれるシーンは、子供ながらにしてとても衝撃的でした。
私は、中学生の頃に、音楽の道を志したいという思いを少しずつ強めていき、その後、音楽を専門的に学べる音楽科のある高校受験と入学とともに、音楽の道を志すことにしました。
けれど、私の脳裏に焼き付いた「「アマデウス」のあの衝撃的な最後のシーンのようには死にたくない。」「音楽家はあのように死んでしまうのが宿命なのか」と、トラウマのようにずっと恐れていました。
封建社会が続いていたモーツァルトが活躍した時代、音楽家は、教会や宮廷に雇われるという立場から、自分で稼いでいく「フリーランス」という働き方になる過渡期でした。今で言う、「働き方改革」がこの時代起きていたのです。
宮廷音楽家でもあったモーツァルト。
宮廷音楽家、宮廷楽団、宮廷画家、宮廷作曲家、すべて、芸術家とはいえ、宮廷に仕えた召使いです。
モーツァルトと同じように宮廷音楽家であったハイドンは「いつも召使いでいるのは本当に悲しいことです。私は惨めな生き物だったのです!」と綴った手紙が残っているといいます。
また、モーツァルトの「ザルツブルグの大司教に下僕同然に扱われた」などの言い伝えもあり、人に雇われながら、クリエイティブな仕事をする難しさを感じます。
インターネットがある時代に、天才モーツァルトが生きていたら!と想像しても無駄なことかもしれません。歴史があるからこそ、今があるということは十分承知しています。
インターネットで個人が自由に発信できる時代。モーツァルトだったら、どのように発信していたのでしょう!
芸術を極める=貧乏ではない
私は、ピアノを弾くというスキルを取得したおかげで、現在、演奏したり、人に教えたりして、お金を稼ぐことができています。
少し長くなりますが、私自身のことを紹介させてください。
高校時代の苦悩
高校受験で、進路を決める時、これからの自分のピアノ人生について真剣に考えるようになりました。進学校にしようか、またはここで音楽の道を志すことを決めて、高校から専門的に音楽が学べる音楽科のある高校に進学しようか。
「3歳からずっと続けてきたピアノを極めてみたい」という思いが強かったので、音楽科のある高校の受験を決めました。
その当時、仲の良かった中学校の同級生には、「この歳で自分がしたいことが分かっていて羨ましい」とも言われました。
しかし、高校では、どんどん演奏する曲が難しくなり、それと共に自分の弾き方に悩むようになりました。長時間練習しようとすると手や腕が痛くなってきて、長時間の練習ができない。テクニック的に難しいところは、何千回、何万回練習したって、手や腕が痛くなるばかりで、一向に弾けるようにはならないのです。
当時師事していた先生には、「体に力が入っている」「肘に力が入っている」「もっと体を楽にして」と、レッスンで熱心に向き合ってくださいました。
「体の余計な部分に入っている力を抜きたい!」自分でも、脱力できていないのは苦しいほど分かっているのです。
でも、全身の体の力を抜いたら、鍵盤を押す力さえもなくなってしまいます。先生も力を尽くしてくださいましたが、一向に良くなりませんでした。
次第に、「私は、本当にピアニストになれるのだろうか」「ピアノの道は諦めるべきではないか」と不安を抱くようになったのです。
ショパンのエチュードのような超絶技巧な曲を弾くのに、最後までたどり着けるかどうかいつも不安でした。途中で手が痛くなってきてしまって、「ここはこんな風に弾きたい」「こんな音色で弾けたら」と思っても、途中から自分ではコントロールができなくなってしまうのです。
高校の演奏試験の曲を先生と相談して選曲するときも、弾きたい曲、挑戦してみたい曲があっても、「この曲は、脱力ができていないと弾けない」という理由で、選択できない曲もありました。
プロのピアニストは、少なくとも一時間以上のリサイタルプログラムを用意し、演奏します。「難しい曲を一曲弾ききることもできない私が、ピアニストになんてなれるはずがない」と真剣に悩みました。
高校卒業後の大学進学先を考え始めた時、日本の音楽大学に行っても、また同じように「弾き方が悪い」「体に力が入っている」と言われ、弾き方に悩んで4年間を過ごし、「結局ピアニストになる夢を諦めることになるかもしれない」と漠然とした不安にとらわれるようになったのです。
「このまま日本にいても何も変わらない! それだったら、思い切ってヨーロッパに留学したい!」
「クラシック音楽のルーツである本場ヨーロッパに住んで、その中に身を置き、その土地の歴史、言語を学び、そこに住む人々と交流し、文化に触れ、偉大な作曲家たちの息吹を感じたい。」
「弾き方についての悩みを解決できず、もしピアニストの夢を諦めることになっても、環境を変えることによって、言語、文化、生活スタイルが全く違う知らない世界に飛び込んだら、人間的成長を遂げられるかもしれない。」
と考えました。
留学先での運命的な出会い
高校卒業後は、日本の大学には進学せず、クロアチアの音楽院に留学しました。そこで、運命的な恩師との出会いが待っていたのです。ヨーロッパでは、新学期が十月に始まります。18歳の秋、緊張と不安、どんなことが待っているのだろうという楽しみな気持ち、言葉では表現できないような感情が入り混じっていました。
幸運にも、入学した音楽院で、声楽科の教授のアシスタントとして働いていた日本人女性がいました。私よりも二十歳くらい年上の女性で、私が日本に完全帰国するまでの11年間、大変お世話になった方です。この方がいなかったら、一大決心をして留学を決めたものの、途中でホームシックに負け、日本に逃げ帰っていたでしょう。
音楽院がある街に着いた晩、この女性から私の恩師となるマリーナ女史の話を聞くことができました。
「ピアノってこんなにも歌えるのか。」
「レガートが本当に声のよう。」
「あんなピアノを聴いたことない」
と、彼女が初めてマリーナ女史のピアノを聴いた時のことを話してくれました。お人柄についても、「どの弟子に対しても、愛情深く育て、母親のような方」と。
私は、その話を聴いて、翌日マリーナ女史の門下生になりたいと大学に申し込みました。門下生の定員は、すでにいっぱいだったようでしたが、なんとか大学側が交渉してくださり、無事に門下生になることができました。
このピアノが歌うマリーナ女史の奏法は、フランツ・リストから受け継がれてきました。リストといえば、その当時、驚異的な奏法で常にセンセーションを巻き起こしたと語り継がれている演奏家でもあった作曲家です。
後半生は、作曲と教育を中心とする道を歩んだと言われ、私の恩師マリーナ女史の師であったプレシチェーエヴァ女史が、リストの晩年に弟子だったアレクサンドル・ジロティから薫陶を受けました。
系図は次のようになります。
【師承系図】
フランツ・リスト
↓
アレクサンドル・ジロティ
↓
ニナ・ギョルギエヴナ・プレシェエヴァ
↓
マリーナ・アンボカーゼ(私の恩師)
↓
私
いよいよ、マリーナ女史とのはじめてのレッスン!
「あなた体がかたいわね」
「弾き方が悪い」
「そんな弾き方じゃ、私の門下生にはなれないわ」
と言われて、入門できなかったらどうしよう・・・という不安な気持ちで一杯でした。レッスンでは、私が恐れていた言葉は一切なく、温かく門下生として迎えてくださいました。
マリーナ女史のレッスンを受け始めて、驚くことにすぐに変化を感じることができました。「力を抜いて」「体を楽にして」という言葉は一切使わず、まるで、はじめてピアノを弾き始める子どもを教えるように、手の形、指のどの部分で打鍵するのか、腕のどこの筋肉を使って弾くのかを丁寧に一から教えてくれたのです。
マリーナ女史とのレッスンは、週に二回。本当に熱心に私と向き合って、毎回レッスンしてくださいました。一回目のレッスンを受けて、家に帰って練習方法を試してみると、三日後には、自分の音色が変化していることに気づくことができたのです。
「もしかしたら、ピアニストの夢が叶うかもしれない!」と、再び希望を持てた瞬間でした。
その後、9年間マリーナ女史のもとで研鑽を積むことになりましたが、偉大な作曲家リストから受け継がれてきた奏法を教える誇り、どんなにできの悪い生徒でも、一度門下生になったら、最後まで育て上げるという責任感、包み込むような深い愛情、言葉では言い表せないような、何かどっしりとしたものを常に感じました。ホンモノに触れるということは、こういうことなのかと。
帰国後の苦悩
マリーナ女史との研鑽、11年のクロアチア生活を経て、
「日本でこの素晴らしい奏法を広めたい。」
「後継者を育てたい」
「次世代のピアニストを育てていきたい」
という強い使命感にかられながら、2014年に帰国しました。帰国後、ピアノ教室を自宅で開業しますが、とにかく早く、一人でも多くの人に、この素晴らしい奏法を教えたい!と意気込んでいました。
ビジネスについて無知だった私は、早く生徒が欲しいばっかりに、価格はその地域で一番安くし、さらに、「好きなことで稼げるのだから、最低限の収入でも幸せ」という思い込みがありました。
まさに間違った自己流ビジネスだったのです。
その上、まえがきにも書いたように、生徒を集めるのにしばらく苦労し、体験レッスンに来てくれても、なかなか入会してくれませんでした。
「私に習いにくれば、こんなに素晴らしい奏法が学べるのに!」と悔しい思いをたくさんしました。
今思い返せば、「価値あるものは、わかってもらえる」という傲り、教えたい=売りたい気持ちばかり強く、体験レッスンに来る生徒さんが何を求めて私を訪ねて来てくれるのかを理解していなかったのです。
「完全であること自体が、不完全なのだ」という名言をピアニストの巨匠ウラディミール・ホロヴィッツが残しています。
芸術とは、完璧な形は存在せず、存在しないのにその完璧を追い求めなければならない宿命であるように感じます。
リサイタル前は、毎日十時間以上練習したって、いくら時間があっても足りない感覚に陥ります。舞台の上で、「今までで一番の演奏ができた! もうこれ以上の演奏はできないだろう」と満足しても、その満足感は一瞬のこと。同じ曲を再び研究し始めると、まだまだ深掘りできる余地があることに気づきます。本当にキリがない世界です。
ピアノの練習をたくさんすれば、コンサートのチケットがたくさん売れるわけではありません。勉強ばかりして、指導力を磨いてもお客さんは来てくれることに直結はしません。
「お金をもらうのには、まだまだ」と言っていたら、お金を払ってもらえる日は永遠に来ません。
芸術家の勝ち組になるには
三ヶ尻正著「ヘンデルが駆け抜けた時代」(春秋社)にもあるように、日本人は「ハンディキャップ克服型」の美談が好きです。バッハしかり、モーツァルトしかり、シューベルトも、ショパンも、皆病気だったり、故国がなくなったり、さまざまな厳しい条件の中、金銭・地位・名誉といった俗世の成功を犠牲にして、ひたむきに創作活動に励み俗世とは無縁の孤高の芸術の高みに達することが美化されすぎています。
では、歴史上、芸術も極め、お金を稼ぐスキルの両方を兼ね備えていた芸術家はいなかったのでしょうか?
「音楽の父」と呼ばれたバッハと同年代に生まれたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、政治・外交にも深く関わり、当時の複雑な内外の政治情勢の網の目をかいくぐり、国際的にも異例の活躍をし、経済的にも裕福で相当な蓄財もした稀有な「勝ち組」音楽家でした。亡くなった時の銀行残高は、1万7500ポンド(現在の価値で2億〜3億円相当か)あったと言われています。
政治・外交にも深く関わった音楽家でもう一人、思い浮かべる人物がいます。ポーランド人ピアニスト、そして後にポーランドの初代首相となったイグナッツ・ヤン・パデレフスキーです。
パデレフスキーといえば、ピアノを学ぶ、学んだ人にとっては、ポーランド音楽出版社が制作したパデレフスキ監修による、ショパン全集(通称パデレフスキ版)で、馴染みのある名前かもしれません。
パデレフスキーは、1890年頃31歳でアメリカデビューを果たし、その後80歳で亡くなるまでに、アメリカ国内だけでも1500回以上の演奏を行い、500万人の聴衆を惹きつけ、そして実に1千万ドル近くを稼いだと言われます。(今日の貨幣価値では、相当な額になるでしょう。)名声をほしいままにし、スーパースターとなります。
しかし、1914年6月28日、サラエボで、セルビア人青年によるオーストリア皇太子暗殺をきっかけに、第一次世界大戦が勃発、これを機に、当時ロシア、プロシア、オーストリアの3国に分割統治されていたポーランドは、戦場となり、約200万人のポーランド人が敵味方に分かれて戦い合うことを強制されました。
パデレフスキーは、この故郷ポーランドの悲劇に立ち向かうため、当時ピアニストとして頂点に立っていたにもかわらず、ポーランド独立を勝ち取るまでは、とすっぱりとピアノをやめます。
ポーランド語の他、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語の4ヶ国語を同等に話せたという、ヨーロッパ人の中でもずば抜けた語学力、欧米の元首をはじめとした政治家たちと、ピアニストとして活躍していた間に深く広く築いた交友関係が、ポーランドの独立(1918年11月)を勝ち取るために、後に初代首相になった時に大変役立つこととなったのです。(参考文献 中村紘子著:ピアニストという蛮族がいる(文春文庫))
ヘンデルの話へと戻しますが
代表作には、「メサイア」(オラトリオ)、「水上の音楽」(器楽曲)、「ジュリアス・シーザー」(オペラ)などがあります。しかし、彼は、ただ音楽を書くだけの人ではありませんでした。
映画やテレビ、ましてやYoutubeなどの映像が存在しなかった時代、当時のバロック・オペラやオラトリオは、ただの娯楽ではなく、王侯貴族の政策や思想を伝えるためのメディアでした。発注者の王侯貴族が宣伝しようと思えば、宣伝用のオペラを、政敵を叩こうと思えば相手をあざ笑うオペラを、行事で人気を取りたい君主には爽快な野外音楽を、その時のニーズに従ってイベントを作る、いわば、今でいうイベントプロデューサーだったのです。
皆さんはプロデューサーと聞いて誰を思い浮かべるでしょうか?
AKB48のプロデューサーとしても有名な秋元康さんは、プロデューサーでもありながら、作詞家としても活躍しています。歌手の美空ひばりさんの遺作となったかの有名な作品「川の流れのように」は彼が作詞した作品です。
もう一人、すぐに思い浮かぶ有名なプロデューサーは、小室哲哉さん。私の中高生の頃アムラーブームを起こし、最近引退されてしまった安室奈美恵さんも、小室哲哉氏がプロデュースを務めた数々のアーティストのうちの一人です。小室哲哉さんは、音楽プロデュースと、作詞、作曲、編曲を兼任しています。
秋元康さんと小室哲哉さんのある番組での対談で、「アーティスト性とヒットを取るならどっち?」と秋元康さんが小室哲哉さんに質問し、小室哲哉さんは、「僕は、褒められるのが好きだから、ヒットだな」と答えていました。自分がしたい音楽よりも、たくさんの人に求められる音楽を優先するとも捉える事ができますが、決してそこにアーティスト性が存在しないとは言い切れません。対談では、秋元康さんも小室哲哉さんも「音楽以外の趣味はない」とお互いに話していて、常に彼らの生活は、音楽が中心となり、その言葉にアーティストの精神を常に併せ持っていることを感じます。
インターネットがある今、個人が自由に情報発信でき、SNSで自分の作品、思いを発信し、自己プロデュースがしやすい時代です。
ヘンデルの時代も今の時代も、時代が変わってもアーティスト性とプロデュース力の両方を併せ持つことが成功の鍵であるだろうと言えるでしょう。
場所の確保が大変
ピアノ教室をまず開くには、様々な条件が必要です。
地域性:その地域にはたくさん子供が住んでいるかどうか
レッスン室:生徒さんが出入りできるような広さで、ピアノがあるレッスン室の確保
立地:教室が通いやすい場所にあるかどうか
などがあります。
自宅で教室が開けない先生は、出張レッスンをしている先生もいらっしゃるでしょう。今まで教室を開くには、場所の条件が必須でした。
◉地域性(近くに小さな子供がいない・少子化)
完全帰国して、いざピアノ教室を開こうと思った時、まずはどこに開業するかの場所選びからでした。
「そこの地域にはたくさん子供が住んでいるか」を一番重視しました。
物件探しをお願いした不動産会社には、物件の近隣にある小学校の生徒数も調べてもらいました。今の場所を選んだ決め手の一つは、その物件の近く(徒歩5分圏内)にちょうど新興住宅地が建設中で、小さな子供がいる家族がたくさん引っ越してくるだろうと予想できたからです。
実際に今、何人もの生徒さんがその新興住宅地から、徒歩でお教室に通ってきてくれています。
しかし、今の日本は、急速に少子化が進んでいます。今後、十年、二十年後はどうなるのでしょう。
子供を対象に教えていて、本書を読んでいる先生もいらっしゃるでしょう。十年二十年前は、たくさんいた生徒数も、近所の子供は、皆育ってしまい、集客に頭を悩ませている先生も多いのではないでしょうか。これからどんどん加速していく少子化、そのことについては、第3章に詳しく書いています。
◉出張レッスンはもう古い
本書を読んでいる方で、生徒の自宅まで出張レッスンをされている先生はいらっしゃいますでしょうか。
自宅には、生徒さんが出入りできるような広いレッスン室がない、お教室の立地が悪い・・・など、教室を開くのに場所の問題はつきものです。
自宅教室でのレッスンと、生徒さん宅を訪問して行う出張レッスンを比べた時に、出張レッスンの一番のデメリットは、移動時間のロスではないでしょうか。一日に何件も生徒さんの家をまわるのに、移動時間によるロスは避けられません。まず、先生の自宅から生徒さんの家まで、その後にある次の生徒さんの家まで・・・・と、とにかく移動時間がかかります。
時間はご存知の通り、お金では買えません。過ぎた時間、使ってしまった時間は取り戻すことができないのです。
ワンレッスン1時間に対してレッスン料をいただいても、そこに移動時間は含まれていませんよね? ご承知の通り、1日は24時間、移動時間も含めたら、一日にまわれる生徒さん宅の数、レッスン回数も限られてきます。また、生徒さんの家まで、電車やバスと公共の交通機関を使えば交通費がかかり、自家用車での移動だって、ガソリン代や駐車場代がかかります。
◉転勤しても教室を閉めなくていい
私の高校時代の友人で、転勤族のご主人と結婚した友人がいます。ご主人の仕事の都合で、4〜5年に1度は引っ越さなければならないのです。
彼女は、音楽大学を卒業し、大手の某音楽教室に就職しました。その後、結婚を機に退職。立派なピアノ講師としての経験もあり、実家にはグランドピアノもあります。ただ、ご主人が転勤族ということで、転勤する度に、一からピアノ教室を始め、生徒がようやく集まってきたところで、生徒たちを手放し、お教室を閉める。また転勤先で一から生徒募集をするというのは大変無理があります。「教えるのは好きだけれど、ピアノ教室開業は諦めざるをえない」と話していました。
もし、転勤族のご主人と結婚しても、オンラインレッスンは、場所が変わろうと関係ありません。せっかくあなたの教える事に対し価値を感じ、通ってきてくれている生徒さんを手放してお教室を閉めたり、転勤先で一から生徒募集したりする必要はないのです。
時間とお金の投資が半端ないクラシック界
ここまで、本書を読んでいただいて「音楽留学に、なぜクロアチア?」と、読みながら思っている方がたくさんいらっしゃると思います。
音楽留学といえば、ヨーロッパだったらドイツやイギリス、フランス、オーストリアなどが主な選択肢です。私がクロアチアを選んだ理由はいくつかありますが、その中の大きな二つの理由は、①「日本人があまりいないところの行きたかった」②「学費や生活費が安かったから」でした。言い換えると、①環境を変えたかった ②経済的理由です。
「音楽留学していた」と話すと、「裕福な家庭で育ったお嬢様」と初対面の人には印象を持たれることがありますが、クロアチアの音楽院の年間の学費は、日本の国立音楽大学より安く、家賃の相場は東京の半額以下で、物価も日本よりも安いからでした。
高校の三者面談で、担任の先生から今後の進路についてのお話があり、日本の各音楽大学の学費についての資料を見せられました。その学費の金額を目にした時、高校生ながらに衝撃を受けました。
ほとんどの私立音楽大学の初年度納入額は、200万円を超えます。平成29年度のある学費データによると、一番高額な某私立音楽大学の初年度の納入額は、270万6600円です。私立大学の他の学部の学費はどうなのでしょうか? 他の学部の初年度納入額平均と比べてみると、文科系学部は、116万5310円、理科系学部は、154万896円です。(平成29年度、文部科学省のデータによる)
比べてみると、一番高額な私立音楽大学の初年度の納入額は、文科系学部の初年度納入額平均の2倍以上の額になります。
国立音楽大学は、私立音楽大学に比べて、だいぶ学費が安くなります。その理由から、全国の音大入試の倍率ランキングを見ると、上位3位は国立の音楽大学です。入学試験の倍率が高いということは、競争率が高く、合格するのが困難で、試験では、高い演奏技術を要するということです。
レベルの高い音楽大学を受験し、合格するためには、受験前に志望校大学に勤める教授のレッスンを受けることをすすめられます。教授のレッスンは、だいたい一回1万5千円〜3万円ほどと言われていて、私は仙台に住んでいたので、もし教授が東京に住んでいる先生だとしたら、仙台ー東京の往復の新幹線代もかかり、一回レッスンにかかる合計の費用は、随分な額となります。
学費の他に、東京に住むとなったら、家賃や生活費がもちろんかかってきます。受験費用(受験のためのレッスン代・交通費など)そして卒業するまでの大学4年間の学費と東京の生活費を全て計算したら、相当な額になるのではないでしょうか。
私の両親は、公務員で共働きでした。教養に関しては、お金を出し惜しみしない両親で、ピアノも買ってもらえましたし、食べるものにも困ったことはありません。貧困を感じることは一度もありませんでしたが、私にはあと二人の妹たちがおり、私がもし東京にある私立の音楽大学に入ったら、きっと家族の生活は苦しくなるだろうという予想は、高校生の私にもできました。
ピアノという楽器は、他の楽器に比べて本当に長時間練習を費やさなければならない楽器だと思います。プロピアニストになるには、「ピアノの練習は、1日最低8時間以上必要」とも言われています。
先ほども書いたように、私は、高校生の頃から難しい曲になるにつれ、弾き方に悩むようになっていきました。日本の音楽大学に行っても、そのまま弾き方に悩んで4年間を過ごし、結局ピアニストになる夢を諦めることになるかもしれない・・・と感じていました。
もし、私立の音楽大学に通うことになった場合、学費が高額な上、東京でピアノが弾ける物件の賃貸、生活費を考えると、アルバイトもしなければならないでしょう。
ピアニストになるには、先ほども述べたように、一日最低8時間以上練習が必要と言われています。生活費を稼ぐためにバイト三昧では、ピアニストにはなれません。
私の場合、弾き方にも悩んでいましたから、これだけの高額を払って、4年後ピアニストになる夢を叶えて卒業する自分の姿を想像することはできませんでした。
音楽を勉強するのって、時間もお金もかかるのです。
音大卒業したらどうやって食べていく?
音楽大学卒業後、日本の音大生たちの就職先はどうなっているのでしょうか。
ある某有名私立音楽大学の平成30年3月の卒業生のデータを見ると、進路決定者のデータで、『進学』が25.1%、就職先で一番多いのが『一般企業・団体に就職』が全体の約4割というデータです。その次に多いのが教員(17.1%)、音楽家など(11.4%)、音楽教室等講師(8.7%)、自宅教師(0.6%)となっています。
一般企業・団体に就職するのは、全体の約4割というデータです。高額な学費を支払って、日々の厳しい練習に励み、音楽に没頭する日々を送ったあと、一般企業に就職する道を選んでいるという事実。
様々な理由や目的があって、卒業後、一般企業に就職することを選択しているのでしょう。でも、「音楽では食べていけない。一般企業に就職するのが一番経済的に安定するから」という理由で就職しているとしたらどうでしょうか。
音楽大学ではビジネスについて学ばない
音楽大学では、楽器の弾き方や音楽については勉強します。でも、ピアノ教室開業の仕方、お客さんの集め方、お金の稼ぎ方は教えてはくれません。(近年日本では、一部の限られた音楽大学や専門学校で音楽ビジネスを学ぶことができるそうですが・・・・)
私が卒業したクロアチアの音楽大学でも、そのことについて教えてもらうことはなく、在学中、音楽フェスティバルでのリサイタルのオファーが来ても、どのようにギャラ交渉をしたらいいのだろうかと悩みました。
日本は、演奏の質、指導の質ばかりを追い求め、お金の稼ぎ方の話をするのは、タブーだという風潮がありますが、アメリカでは、音楽を学びながらも、ビジネス、お金について学ぶことができるようです。
「菅野恵理子著、ハーバード大学は「音楽」で人を育てる 21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育(アルテスパブリッシング)」によると、アメリカのバークリー音楽学校(ボストン)では、主専攻科目に音楽ビジネスがあり、リベラルアーツ必須科目(芸術史・英語・歴史・人文学・数学・自然科学・音楽史・音楽と社会・社会科学・テクノロジー・リテラシー・その他選択科目)の他に、データ処理・統計学や国際経済学が加わり、最近新設された主専攻科目には国際ビジネス・ライセンス(ストリーミング・サービス、ダウンロード、TV、映画、ゲームなど)と、デジタルマーケティングがあるそうです。
近年では、アントレプレナーシップ(起業家精神)の育成に力を注いでいるそうです。
寄付をするほど税金が控除されるシステムであるアメリカは、芸術活動や文化財に対して個人や企業からたくさんの寄付が寄せられます。ある大学では、コンサート・ホールのリニューアルを3億円の寄付によって実現したそうです。音楽や芸術への協賛や寄付が社会貢献として評価されます。最近では、寄付を募るためのファンドレイジングを、米国におけるフィランソロピー(慈善・社会貢献)の歴史を追いながら、「何が人を寄付行為へ導くのか」「ファンドレイジングを成功させるにはどのような戦略やテクニックが必要なのか」などを体系的に学ぶ授業を展開する大学もあるというのです。
資本主義社会の中で生活を送る私たちは、音楽を専攻していても、長い間、日々大変な努力を注いできた大好きな音楽で食べていけるようにするには、アントレプレナーシップ(起業家精神)やビジネス、マネーリテラシーについて誰もが学ぶべきだと思います。
私は、ピアノ教室を開いて、しばらく「お客さん」「集客」という言葉に抵抗がありました。音楽大学を卒業するまでは、ピアノを教えてくれる先生という恩師がいて、私は弟子であるという師弟関係で、自分自身のことをお客さんで、先生にサービスを受けているという意識が全くなかったからです。
ピアノ教室を開き、自分で事業を始めることになって、お金についてのマインドセットを変えなければならないことに気づきましたが、今までのお金に対する感覚を変えるのにはしばらく時間がかかりました。
大手音楽教室に就職した場合
音大卒業後、専門分野を活かそうと、大手の音楽教室に就職する人もいます。
私の高校時代に仲良くしていた音大卒のお友達も、大手の音楽教室に就職した人が何人かいます。
報酬の割合は、基本的に4:6、5:5、6:4などとなっており、会社とピアノ講師が取る割合が決まっています。
ウェブ上で公開してあった某大手音楽教室の報酬の参考例です。
講師が取得しているグレードにより報酬の額は変わってくるようですが、個人レッスン35名、グループレッスン10名の合計45名の生徒数の場合、約12万円の月額報酬となっています。
取得しているグレード級が上がった場合、報酬が上がるようですが、それでも20万円未満の報酬です。また、雇用契約ではなく委任契約となるので、国民健康保険、国民年金に自分自身で加入し、この報酬の中から支払わなければなりません。
某大手音楽教室に勤めていた友人たちは、家賃を払って一人暮らしをする余裕はなく、実家暮らしをしていました。また、音楽教室の仕事がない午前中は、音楽とは関係のないカフェやパン屋でアルバイトをして生活費を稼いでいました。
今は、これまでになく個人が起業しやすい時代。大手音楽教室に勤めなくとも、ネットにさえつながっていれば、あなたの専門分野を活かして、すぐに人に教える仕事が始められます。それが、オンラインレッスンの魅力です。集客も、SNSで情報発信して、あなたの価値が伝われば難しいことではありません。詳細は、第4章の実践編で詳しく書いていきます。
第1章では、音楽家たちの事情について書きました。次章では、オンラインレッスンがなぜ必要とされているのか、今の時代背景について書いていきたいと思います。
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