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カップ麺を選べなくなりました。

久しぶりにカップ麺を食べようと思ってコンビニ行ったら、食べたいカップ麺が決められずに絶望した。この話にはオチもボケもないけど、もう、ちょっと、あまりにもショックやったから、その時の気持ちを残しておく。


元来、私は生粋のカップ麺好きでした。
誕生日ときたらデスクにはもうたちまちカップ麺のタワーができる、そんな自他共に認める無類のカップ麺好きでした。お正月もね、2日の昼はカップ麺初めや〜なんか言うて、家族4人でカップ麺をいただくことを毎年の恒例とする、親譲りのカップ麺好きだったんです。大小問わず目標達成してやった〜ってときも、逆にできなくて悔しいときも、ちょっと頑張った日も、頑張れなかった日も、カップ麺はそばにいました。受験勉強のお供に、博士論文のお供に、あらゆる瞬間にそばにいたのがカップ麺だったんですわ。

でもね、カップ麺は体に悪いし、このカップ麺依存生活を続ければ行き着く先は生活習慣病である、さらに先には死である、いうことを私はちゃんと認識してました。だから背徳感というよりは、むしろ罪悪感を毎度うっすら抱きながらね、それでも今日は頑張ったから、今日は悲しいことがあったから、とわざわざ前置きをしてまでカップ麺を食べていたんです。そして20代後半にさしかかったあたりなら、30までにはカップ麺フリークを辞めよう、と、そう心に誓いつつ、日々のカップ麺を噛み締めながら味わうようになったんです。

でも時は無常。私は29になった。私に負けず劣らずカップ麺好きの夫と結婚したからね、もう2月、3月と狂ったようにカップ麺を食べましたよ二人で。いただきますの代わりに30までに辞めると宣言をしながらも、私はカップ麺という目先の快楽に走る放蕩な日々を過ごしていたんです。

転機は4月に訪れました。新婚早々お互いに単身赴任となり、これを機に各々の食生活を見直そうね、なんて言いあいまして。だから私はカップ麺を食べなかった日は手帳に丸をつける習慣を始めました。最初の3日ほどはふとした瞬間に禁断症状。カップ麺が食べたい…がよぎるんですけど、あぁいかんいかんとね、手近なお菓子で意識を逸らせてやり過ごしてたんです。ところがね、1週間もすぎるとカップ麺のない生活がなんとなく日常と化していることにうすら気づき始めたんですね。

そしてカップ麺禁11日目にして、「逆にカップ麺を食べてみよう」と思い立った。コンビニに行って、以前のようにカップ麺コーナーに鎮座する色とりどり、味とりどりのカップ麺を凝視します。そこで私は初めての感情に出会った。

どれを選べばいいのかわからん。

これまでの私の「あれも食べたい…これも食べたい…あ〜どれを選べばいいのかわからない!クゥ〜!罪な食べ物やね、カップ麺ったら!」ではないのです、悲しいかな。どれにも興味が湧かないのです。どれもこれもつまらない食べ物に見えて。この11日間、カップ麺は欲深い私を蝕む悪だをスローガンにカップ麺禁に勤しんで参りました。久しぶりに食べるカップ麺はさぞかし美味しかろう!そう期待してカップ麺売り場に馳せ参じたんですよ。
ところが、これはどういうことですか?好きだったものがわからなくなってしまったとは。カップ麺は確かに体に悪い。でも、あんなにも私の心を躍らせ、時に励まし、時に慰め、毎日を支えてくれる存在だったカップ麺。それを、ものの11日、これは悪ですと思いながら生きたことで、いとも簡単に捨てることができてしまったんですよ、ほんまに。

これは末恐ろしいことちゃいますか?私もだんだんオバハンになって、日々に忙殺されたり、節約に勤しんだり、健康意識を高めたりする中で、本当に好きだったものがわからなくなっていく。私にはそんな未来が待っとるんです。

私は絶望しましたよ。このままつまらない大人になるのかと。そしてやはり、カップ麺を実際に口にするとね…やっぱりかつての感情はもう沸き起こらなくなっていたんですわ。200円しない食べ物ひとつで、ハァ…生きててよかったァ…なんて思える、幸せな人生だったじゃないか…私は…私は…。


話は変わりますけど、先日両親と焼き鳥屋に行きました。そこでお通しの「玉ねぎと砂ずりのあえもの」を、あーこりゃうまい、最高やと言いながら食べたんですね。そしたら親がびっくりして。「砂ずりなんか食べるようになったんか!」と。いつからか知らないけど、私は砂ずり大好きだし、そんな驚かれるようなことだとは思わなかった。あ、人って変わっていくんやわ。カップ麺が好きじゃなくなる日が来ても、私は新たに砂ずりが好きになったり、ホルモンのうまさを知ったり、忌み嫌っていたはずのナスが度肝を抜くうまさであることを覚えたりするんです。

もしかしたら私がカップ麺狂いだったのも、本当は嘘で、カップ麺狂いという人格を自分自身の中に飼っていたに過ぎなかったのかもしれないね。その人格にカップ麺という餌をやらなかったから、そいつはぷいとどっかに行ってしまった。それだけのことなのかもしれないわ。

大体のことはそうなのかもしれない。固執してることなんて10日も意識して離れたら人間なんていとも簡単に忘れる生き物なのかもね。
今はそう言い聞かせて、カップ麺を受け入れられなくなった現実と折り合いをつけていこうと思う。

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