noteへのお礼
「おはよう、note」
そんなふうにからかってくれる人がいます。
いい返し方を思いつけないので、笑っちゃうだけなのですが、愛のあるこのいじりが結構好きだったりします。
noteはFacebookにもシェアしているので、顔のわかる知り合いも結構読んでくれています。
それを通じて再会できた人もいました。
今日はnoteへのお礼を書いてみます。
書く楽しさを思い出させてくれたこと、ありがとう。
小さい頃から本を読むのが好きでした。
物語のかけらのようなものを思いついては、ちょっと書いてみるのも好きでした。
中学校の国語の授業だったと思います。教科書に出てくる物語を扱う単元の最後、先生が言いました。
この物語の続きを書いてきてください。
それは「さんちき」というタイトルで、京都で車大工の見習いをしている少年の話です。
教科書には書かれていない物語の続きを考える時間は、とても楽しいものでした。
自分ではなかなかいいものが書けた、と満足して提出。評価は気になりませんでした。
後日の授業で「先生が特に好きだと思った話」と私が書いたものを紹介してもらえたときは、不思議な嬉しさがあったのを覚えています。
書いたものに対して感想をもらえたり、すきだと言ってもらえることはこんなに嬉しいのだなあ…と、忘れがたい感動を得ました。
noteで久しぶりにその気持ちを味わっています。
とりとめのないこと、小さなことを書いているのは自分でもわかります。
それでもなるべく等身大の自分をもって書くようにしています。ちなみに163センチです。
投稿するたびに、誰かから反応をもらいます。「スキ」だったり「フォロー」だったり「コメント」だったり。稀に「サポート」だったり。
いつも読んでくれている方、一度でも読んでくれた方、嬉しいです。ありがとうございます。
今、私の隣にnoteさんがいて、私の肩を「よかったね」とたたきながら一緒に頭を下げているかんじです。ありがとう、と。
素敵な人に出会わせてくれること、ありがとう。
noteを通じて知り合いになれた方もいます。
知り合いにはならなくても、その考え方や感性に惹かれて、毎日その言葉に触れるようになった人もいます。
noteという場でなかったら、出会えなかった人たちです。
自分のことも、より深く知ってもらえるようになりました。すでに知り合いの場合でも、投稿の内容をきっかけに話す頻度が増えたり、「自分も興味が湧いたよ」と言ってもらえたり。
なにもないところからは生まれなかった会話も、noteに書いたことで花が咲く。そんな楽しさがあるのだなと気づきました。
嬉しい自分も苦しい自分も、見つけさせてくれてありがとう。
書くようになって、書くことが楽しいと感じる自分を思い出しました。
誰かに読まれることの嬉しさも。
一方で、苦しい自分も見つけました。
かっこつけたくなってしまうとき、うまく言葉にできないとき、人の書いたものが眩しく思えるとき。
正直じゃない自分はとてもちっぽけに感じて、結構苦しいものだなと思います。
noteを使ってくれと誰に頼まれたわけでもない。わざわざ書いて読んで、苦しくなったり自分を嫌になったりしているわけです。
でも、私は楽しさだけが欲しかったわけではないのだろうなと思ったりしています。
ストレス発散だとか、リラックスだとか、消費的にnoteを使いたいわけじゃない。
そういう瞬間もあるかもしれないけれど、これまでとこれからのnoteを通して、きっと私は感情を取り戻していくんじゃないかと思います。
言葉にするまでもないと思った喜び。
言葉になんてできないと思った苦しみ。
誰かが今日もどこかで、懸命に生きている証。
「また“証”とか言っちゃった」と、実際の今日の私とかっこつけている私とのずれを自覚して恥ずかしくなるこの気持ちを。
小さなことでいい。
かっこよくなくてもいい。
人のことが眩しくてもいい。
できることからでいい。
あなたがあなたの声を大切にしたいとき、noteはそばにいますよ。
そんな声が聞こえる気がします。
いつもありがとう、note。
今日もおはよう、note。
この投稿は、#ペアnote の3月テーマ「noteへのお礼」に寄せるものとして書きました。