1985年~1991年 均等法から育児休業法の間
川原泉が「パセリを摘みに」を発表したのが1985年の冬。
25歳過ぎて未婚の女性を「クリスマスケーキ」というのは知っていたけれど、「パセリを摘む」(売れ残りになって結婚紹介所のお世話になる)という表現はこの作品で知り結構衝撃だった。
この作品は1985年の花とゆめ第23号掲載、つまり1985年11月発表ということは、ちょうど均等法が成立して、翌年の施行までの間に発表された作品というわけだ。
今改めて読むと、就職して仕事をがんばるけれど、売れ残りにならない程度の年齢でそれなりの男性と結婚して家庭に入り専業主婦になるのが当たり前、という当時の価値観が前提のストーリーだ。その時代の20代の女性の微妙な心情をうまく拾って、それをコメディに昇華させている川原泉ってすごいなあと思う。
話を戻す。
均等法と第3号被保険者制度ができた1985年時点では、女性はおおむね25歳をめどに結婚して家庭に入るのが当然と考えられていた。
育児休業法ができたのが、1991年(平成3年)。
結婚して出産しても働き続けられる女性の職業といえば、教師や看護師(当時は看護婦)位だったように思う。
以下は入社2年目か3年目、まだ育児休業法施行前のことだから、1990年(平成2年)~1991年(平成3年)頃のことである。
「知ってる?男性には産休があるけど、女性には産休がないの。出産で休むと病欠扱いになるの!」
妊娠した先輩が、驚きのあまり私たち後輩に向かって叫んだ。
当時の就業規則には、男性社員には、妻の出産後か出産前後の数日間「産休」があった。一方、女性社員には「産休」はなく、出産のため休むと病欠扱いになる、という。
女性はほぼ結婚退職が当然だったため、出産後復職して働くことが想定されていなかったのだ。そのため就業規則にも女性の産休の規程がなかった。そもそも女性が結婚後も働き続けることを会社も望んでいなかった。まあ、そういう時代だった。
この先輩は、結局出産して復職したのち退職した。実際、民間企業の女性社員が出産して働き続けるのが困難な時代だった。
今振り返ると、均等法制定後、女性の意識も働く環境も確実に変化していった。
それに対し、男性を取り巻く環境や意識は均等法前後でどれほど変わっただろう。その影響に気づかないほど、変わらなかったのではないか。