若草
吾輩は猫である。名前は朔(さく)。ご主人様がいる家の帰り道を忘れて、ニンゲン・サクラと出会う。ニンゲンとネコは、生きるスピードが違うのだ。それでも、神様に飼われるその日まで、相手を求めずにはいられないのは何故だろう。 猫目線で語られる、小さな一つの恋物語。
「おとうさんの、すきないろってなぁに?」 ずっと、ずっと子どもの頃。 その日は久々に家族全員が揃った。だから、晩ごはんは外食することになった。私は嬉しくて、はしゃいでいたと思う。 「うーん…この色かな」 注文を終えて、料理を待つ間のたわいも無い会話。父は気怠げに、お店のステンドグラスを指差す。 深い、海の色だった。 料理が来ても、私はずっとステンドグラスを見つめ続けていた。 忘れてしまわないように、目に焼き付けていた。 「ねぇ、おかあさん。このいろは、なにいろ?」 後
ロウソクの灯りは、1/f ゆらぎがあるので落ち着く。 「1/f」のゆらぎとは、規則的な中にも不規則が混在している “ゆらぎ” のこと。 前にあなたが教えてくれた。 子どもの頃、車窓から景色を眺めていたはずなのに、電車の揺れでいつの間にか眠っていたり、 寄せては返す波の音に、いつまでも夏が終わらなければ良いのにと願ったり、 木目の美しい机に料理を並べるとぬくもりを感じたり、 森の中で響く小鳥のさえずりにも、 すべては「1/f」のゆらぎが潜んでいる。
夜と朝が挨拶を交わす。特別だと思っていた金色の世界。 だけど、お日さまはどんどんと登り、景色はあっという間に見慣れた色へと移ろいゆく。 「帰ろうか」 サクラが、自分に言い聞かせるようにつぶやく。 人間と猫による愛の逃避行は、あっという間だった。金色の世界に包まれているときから、きっとサクラはそう言い出すだろうと、名残惜しい気持ちもあるが、何処かではわかっていた。 仕事へと向かう人の波に逆らって、サクラとサクは歩いてゆく。家路を目指して。 途中で、サクラがどこかに電話を
ガタン、ゴトン。 生まれて初めて乗った電車は、人間に抱きしめてもらった時の、鼓動のリズムと何処か似ている気がした。 全ての生き物は、生まれた時から死ぬまでに胸打つ鼓動の数が同じだと聞いたことがある。ただ、音の速さが違うのだ。 ネズミは早いから寿命も早く訪れるし、カメはとてもゆっくりだそうだ(ご主人様が言っていたことだから、本当かは微妙だ)。 吾輩は猫であるが、人間の心臓の音は、猫より少しゆっくりだと思う。 だから、猫よりも長生きするんだな。 きっと、サクラだって。 昨
『銀河鉄道の夜』みたいだ。 --黒猫である吾輩・朔(さく)は、生まれて初めて乗る電車を見てそう思った。何しろ、人生(ネコだから猫生だろうか?)の大半を、ご主人様の家で過ごしてきたのだ。 ご主人様が語ってくれる電車なんて乗り物は、小説の中でしか存在しない空想上のものだと思っていた。 それなのに、吾輩は人間•サクラと電車に揺られている。ご主人様の知らないところで。 「電車の中に入ったら、大人しくしていてね。声は出しちゃダメだよ」 サクラが自分の口に人差し指を当てる。 ちえっ
「きっぷ」 私は自由な左手で、彼の服の左腕辺りをクイクイと2回引っ張る。 彼は「うん」と頷いただけだった。 いや、このままだと私、切符が買えないよ。今日、ICカードあったかな。 私の右手は、あなたの左手に握られるためにある。 そして、あなたの左手は、私の右手を握るためにある。 肩から下げたカバンを不器用な左手で探っていたら、いつの間にか彼が二人分の切符を買っていた。私は小さく「ありがとう」と呟く。 ホームへと向かう駅の階段は人が少なくて、真ん中に手すりがあった。私たちは
「クロ、起きてる?出かけよう」 吾輩は猫である。そんな毎度お決まりの挨拶をする暇もなく、サクラは空が明るくなる前に、吾輩をカバンの中に押し込んだ。 思い返せば、サクラは昨晩から様子が不自然だった。 「ただいま」 いつものように玄関まで迎えに行ったが、サクラはしゃがみ込んでしばらく動かなかった。 顔を隠して、何も言葉を発しない。 お腹でも痛いのだろうか。ミャーと鳴いて声をかけてみる。サクラはやっと、ただいまの挨拶をした。 だけど、靴を脱ぐ気配は一向に見せない。 玄関でずっ
吾輩は猫である。名前は朔(さく)。ご主人様と離れて人間・サクラと暮らし始めた。なお、サクラと一緒にいる間はクロと呼ばれている。 お互いが、お互いのいる生活に慣れ始めた。 「ただいま、クロ」 玄関まで迎えに行くと、靴をきれいに揃えるサクラが、吾輩の頭に触れる。吾輩は甘んじて受け止める。 一緒に暮らし始めた当初、サクラは慌てたように帰って来ていた。吾輩のことが心配だったらしい。サクラは今まで猫を飼ったことがなかったようだ。 だけど、猫はそんな簡単に死なないし、どこにもいなくな
私があなたを好きになった瞬間は、今でもはっきり憶えている。紅茶をすするあなたが小さく笑った時だった。 初めてあなたと二人きりで出かけたときのこと。私たちは食事をして、その後カフェに入った。 メニューはシンプルなものが多くて、私はホットレモンティーを、彼はホットコーヒーをそれぞれ注文した。店は繁盛していて、注文したくても、店員を捕まえるのに一苦労だった。 だけど、運ばれて来たのは、温かい紅茶が二つ。 「あの、すみません」 「いや、いいんだ」 あなたは、店員を呼ぼうとする私の
吾輩は猫である。名前は朔(さく)。ご主人様が行方不明の今は、サクラというニンゲンにクロと呼ばれている。 「クロ、ごはんだよ!」 朝、サクラの凛とした声が響く。 ご主人様は朝、ぼんやりとしていたことが多かったけれど、サクラはとても元気だ。 美味しそうなスープとパンの焼ける匂いがする。吾輩はカリカリで充分だが、パンにジャムを塗るサクラは幸せそうだ。 “お前は可愛いから、いつか飼ってくれるヤツが現れる。その時は、綺麗サッパリ俺のことは忘れて、そいつの元で、誰よりも幸せになる
吾輩は猫である。名前は朔(さく)。ご主人様を見失った矢先、ニンゲン・サクラと再会した。 そして、サクラの部屋にいる。 「ほら、クロ。まずは足を綺麗にしようね」 さっき「朔」って呼ばれた気がした。 だけど、サクラは相変わらず「クロ」と呼んでいる。 あれは空耳だったのだろうか。 吾輩がそう呼んでほしくて、聴こえてしまったのだろうか。 サクラの部屋は、花の良い匂いがした。 ご主人様と部屋のサイズは同じくらい。 一人と一匹にはちょうど良い大きさ。 だけどサクラの部屋の方が、本が
吾輩は猫である。名前は朔(さく)、のはずだった。ご主人様がくれたと思っていた名前も、呼んでくれる者がいなければ、何の価値もない。 この家は本当にご主人様と吾輩の家だったのだろうか。 もうあきらめよう。 いくら待っても、ご主人様とは会えないのだ。 ご主人様に捨てられたなんて認めない。 ご主人様と吾輩は、この家に見捨てられたのだ。そして、知らないオジサンの家になった。 だから、ご主人様はこの家に戻って来れないだけなのだ。 吾輩は、一匹で生きてゆくことにした。 もうこ
子どもの頃、早く大人になりたいと思った。 子どもながらに傷ついたこと、哀しかったことを、全部忘れないまま大人になるのだと心に誓った。 大人にとっては些細なことでも、子どもと等身大で痛みを分かち合いたいから。 そのときは、いつか子どもだった頃の私は抱きしめられて、寂しさを許せる日が来ると思っていたの。 そんな大切なことを、私たちはいとも簡単に忘れてしまうけれど。 でも、ふとした瞬間に心中をかすめる日もある。 たとえば、朝日を見ながら、珈琲を飲んだ時。 あるときは、ふ
夢を見た。誰もいない無人の駅だった。終電を迎えたことは知っているはずなのに、私はいつまでも駅のホームで誰かを待ち続けた。いつかあの人と来た海がそこにはあった。 真夜中の海は昏く怖いはずなのに、瞬く星のおがけで、青く光って見えた。 あの人と来た時は、燦々と太陽が降り注ぐ、真昼の海だった。今はただ、静かに星が降り注ぐ。 私は夢の中にいると理解していて、 だけどちゃんと夜の世界を創造できる自身の空想力に驚いた。 ちりん。 鈴の音が聴こえた気がした。 横を見ると、一匹の猫
「人間とネコではね。生きるスピードが違うんだ」 また始まった。ご主人様の独り言タイム。 可哀想なので、吾輩が話し相手になってあげることにした。 「猫は、人間なんかよりずっと賢くて良いヤツだ」 そんなの、当たり前だろう。 吾輩は胡乱な目で、酒の匂いがする缶を持つご主人様を見つめる。 「だから、神様は人間よりも先に猫を連れて行ってしまう。神様は良い子が好きだからね」 カミサマの話、好きだな。また言っているよ。 「でもね、だからこそね。お前はたくさん悪あがきするんだよ」 -