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アスペ女子が初対面2時間で忘年会に誘われた件 ~“ありのまま”をアップデートする現代の京極派の美学~

梶間和歌「皆さん寝て起きたら今日会ったばかりの私のこととか忘れてるでしょ」
20代♂「何言ってるんですか。忘れませんよお、カビさんの奥様のこと」
和歌「やだー、カビさん。いまの冗談聞いた? 」
20代♂「えっ」
和歌「えっ」





アスペ女子が初対面2時間で忘年会に誘われた件 ~“ありのまま”をアップデートする現代の京極派の美学~

梶間和歌のアルバイト遍歴

梶間和歌は本業の和歌活動のほかに、趣味としてガテンのアルバイトをしています。


最初にその仕事に就いたのは2013年とか、そのくらいのころ。

それまでにもいくつかアルバイトをしてきたのですが、
固定の場所に毎日通い、職場内で人間関係を育んだりお客さんに対応したりするのがどうにも難しく、続かなくて。

そうだ、自分の生活圏で自分(=客)が見つけるバイト(=自分のようなお客さんと関わる仕事)ではない、あまり人と関わらないバイトを探せばいいんだ、こちらから探さなければ見つからない仕事が世の中にはあるはずだ、
とある時気づき、その一点を基準に、いわゆるガテンの仕事と呼ばれるものを見つけたのでした。


はじめは生活のため仕方なくという感じでしたが、そこで2年ぐらい働き、そのなかの特定の仕事が好きになってしまいます。

その仕事だけができる環境を求めて2社目に乗り換え。
2社目ではそこそこのブラック勤務をすることになり喘息を発症、2ヶ月半で辞めてしまったのですが、その仕事は変わらず好きだったのでなんとか続けたく。
喘息を治して8ヶ月後、3社目に移りました。もうブラック勤務はしない、頼まれても拒否するぞと心に固く誓って。

実家の事情で一度地元に戻りましたが、ヒステリックブルーな母親(こちらの記事をご参照ください。べつにヒステリックではない)に嫌気が差して東京、そして3社目に出戻り、現在に至ります。
ブランク期間を除いて7年ぐらいになるでしょうか。よっぽど、好きですよね、この仕事。


3社目でもいろいろな人間関係に揉まれつつ、人より遅くとも着実に技術を身につけ、仕事はいまいちでも心の美しさでは人にも自分にも負けまいと心掛け、
気づけば後輩とか仲間とか呼んで差し支えない人間関係もしっかりめに築かれていました。
(あと、どんくさい私に散々当たり散らしてきた優秀な先輩方が、優秀すぎてどんどん引き抜かれ、いなくなっていった。もちろんすてきな先輩も引き抜かれました! いなくなった人全員がアレだったわけではないよ)

時間は掛かりましたが、自身の心を磨く努力は決して自分を裏切らないものだと思います。
その種の努力の甲斐が本当にない環境だとしたら、見限って辞めればよいだけですしね。江戸時代でもあるまいし。
そして、辞めたとしてもそこで磨いた心はその後の自分の財産であり続けます。永遠に。コスパ良すぎ。


なるほど、このナチュラルムーブがね

2社目、もう紛らわしいのでABCのB社としましょう。3社目はC社で。わかりやすく。

B社にいたころ、私は2ヶ月だけですが特定のクライアントの現場によく充てられおりました。
たまたまC社も同じクライアントの現場を持っており、C社に移ってからもそのクライアントの現場に入って元チームメイトと鉢合わせ、挨拶したり、仕事上のコミュニケーションを取ったりすることがあります。

B社の元チームメイトにはもう辞めてしまった人もいれば、アルバイトから社員になった人もいて。
その、社員になったお兄さん、カビゴンとバリヤードを足して2で割ったような方なのでとりあえずカビさんとしておきましょう、
そんなカビさん、あともうひとり残っている元チームメイト、メガネの木暮こぐれさん(スラムダンクをご存じない方はぜひご一読を)と、一番よく会うかな。どちらも年上の男性です。


そのうちの木暮さんと、数ヶ月前、ある現場でいっしょになりました。
B社のお仲間(♂)と木暮さんの会話が途切れたと見えたタイミングで、私が「元気? 」と挨拶。
そこから3,4往復雑談をし、「またね」と手を振って、


ふと思ったのです。

これ、もし木暮さんの話していたお仲間が女性だったとしたら、たとえその女性が木暮さんに特別な感情を持っていなかったとしても、
女性の特性を考えると、いまのは嫌われるムーブだったかな、

と。


自分が話しているバイト仲間に、他社の女性バイトが親しげに話し掛け、満面の笑みで手を振って去ってゆく。
うーん、これ、隣にいる女性側の身になって考えたらきついわ! ムッとなる! 誰やこの女、となる!! 少なくともモヤっとはするだろうな。

女性は男性以上に内と外を区別し、自分の身内と見なした対象やその秩序を守ろうとしますし、そこにするっと入ってくる異分子(と見える者、特に同性である女性)を敵視しがちですからね。

(もちろん個人差はありますが、傾向の話。私にもこの傾向があることを自覚したうえでのことです)
(木暮さんの隣にいたのは実際には男性だったし、短時間の会話だったので、たぶん問題ない)


きっと私、女性に嫌われるこういうムーブを、悪気なくかましてきたのだろうな。
私が女性の先輩に嫌われがちだったのは、もちろん相手の人間性もあってのことだろうが、私のナチュラルムーブが相手の気に障ったところもきっとあったのだろう。どれが、という特定はもうできないけれど。

という自覚を新たにしたところで、
しかしいま私が関わっている女性の仕事仲間たちは、ほぼ全員私のことが大好きなので、この自覚を持ったところで活かす場面がないわ、
とセルフつっこみして。てへぺろ。


この人他社で、初対面だったよね?

そんな木暮事件の数日後のことです。
現場終了後B社のカビさんといっしょになったので、話しながら駅に向かっていました。

さて、駅が近くなり、私のバイト仲間がいるだろうか、と覗くとC社の仲間はおらず、
カビさんのお仲間、B社の皆さんがそのあたりでわいわいしていました。10名ぐらいおられたかな。ほぼ全員私の知らない方々です。

カビさんはお仲間と少し話してすぐに帰ると言っていた。
私はどうしようかな。この状況で話し相手もいないし、カビさんといっしょに帰ろうかな。

……と思っていたら、カビさんがお仲間と話し込み始めてしまった!
なんと~! 話が違うぞ~!!


手持ち無沙汰になった私は
「元B社、いまはC社の梶間です。B社にいたころはカビさんたちと同じチームで」
と挨拶し、B社の皆さんとおしゃべりを始めました。





お し ゃ べ り を 始 め ま し た 。







特に気さくなB社のおひとりに助けられたこともあり、なんだかんだ終電近くまで談笑。
カビさんの奥様だと思われていた冒頭の件はきっぱり否定しましたが、なるほどね、特定の男性としゃべっているところを何度か見られると傍からはそう判断されるのか……学習。
それはともかく、

「梶間さん、めっちゃ馴染んでるじゃないですかあ」
「うちの忘年会来てくださいよ」
「えー、お邪魔でないならぜひ。誘ってくださいね♪ LINE教えたらいいですか? 」

とLINE交換し、終電2,3本前の電車に飛び乗ったのでした。
うーん、コミュ力!!!


しかし、もちろんそういうノリはその場限りのことである可能性もあるので、実際に誘われなくても気にすることではない、
他社の人間でありながら初対面の皆さんと数時間楽しく会話できた自分のコミュ力に自信を持ち、この先も心を鍛えてゆけばよい。

そんなつもりでその後過ごしておりましたら、


1ヶ月後、お呼びが掛かりました。


B社に在籍していたころにはそこまで親しく付き合ったわけでもない方々とも再会し、初対面のおひとりともいろいろ話し、楽しい時間でした。
私は1次会で帰りましたが、「えー、帰るの? もっと飲もうよ」と、皆さん心底名残惜しそうにしてくださったのが伝わってきて、うるうる。


例えばその場は楽しく過ごせたように見えても、実は相手に気遣いを強いていたり、気まずさを我慢させていたりする場合、
「今度飲みに行きましょうよ」なんて言われてもその後音沙汰なし、なんてよくある話ですよね。

もちろん、呼ばれない理由は「実は空気が読めていなかったから」でない・・・こともあるので、きちんと見極めたいわけですが、
事実呼ばれたということは、初対面のあの日皆さんにばっちり好かれるコミュニケーションが取れていたということだ、と解釈して構わないだろうと思います。


そして、これが数日前のこと。


お義理で合わせてくれたわけではない、ちゃんと「おもしろいお姉さん」「いい人」「いっしょにいて楽しい」と認識してくれていたのだ、
と、忘年会に誘われた事実やそこで楽しく過ごせた事実、この日コンビニで挨拶された事実から改めて思わされました。

自身を過大評価するとイタいことになるが、過小評価も相手や世界に失礼である。事実は事実。とてもうれしかったです。


“ありのまま”のアップデート

本当に有難いことに、いま在籍しているC社のほうでも私のことを、ただ先輩として尊重してくれるだけでなく、人として慕ってくれる後輩が何人かいます。

久しぶりに現場終わりの談笑に合流したら、あちらのほうから「梶間さーん! 」と駆け寄って来る子がいたり、
2,3回しか会ったことがないのに「梶間さんは本当に話しやすいです」とガチ恋愛相談してくれる子がいたり、
私より上のランクになったのに「不安だった最初のころに梶間さんが話し掛けてくれて救われました」「私にとって梶間さんはずっと先輩です」なんていまでも言ってくれる子がいたり。

そんななかのおひとりと、ちょっとした会話をすることがありました。


その子は私と似たところがあり、人間関係に不器用で、仕事も決して覚えの良いほうでなく、ああ、大変だろうな、と見えるところがあります。
そのぶんかわいく思われ、心を込めて接しているのですが。


アスペルガー症候群っぽい、少なくともその特徴はあると中学生のころ診断された私は、とにかく視野が狭く思い込みが強く、思い出しても恥ずかしくなるようなムーブをかましていたもので、
その結果当然・・世界から返ってくる反応を「ひどい」「どうして私ばかり」と受け取るメンヘラ中のメンヘラでした。どう見ても自分のせいなのに。

発達障害があると人より遅れて成長期が来る、なんて聞いたこともありますが、
アスペルガー症候群の私の成長期は26歳で和歌に出逢ったさらにあと、30代前半あたりから少しずつ来たのだったかな、と自覚しています。
それまでは本当にひどかった。

しかし、新古今和歌でなく京極派和歌のほうに開眼して以降、特に30代半ばあたりから、
京極派歌人たち、特に光厳院の生き方を指針として心を磨くことに努め始めます。


2023年末にはこんな記事も書いたなあ。


その努力の過程で
「最近はお義理でなく人に好かれるようになってきたし、もっとなれると思う。でもこれって自分らしさを否定しながら社会適応しているってことだから、とても苦しい。私は、本当は配慮とかできない人だもの」
と親友のひとりに洩らしたこともありました。いまから2年半ぐらい前のことだったかな。

その時の親友の言葉は

「実は私も過去にそれをやったことがあるから言えるんだけど。
 いま努力しているぶん、将来の和歌ちゃんは、努力しなくても自然な配慮や好かれる振る舞いができるようになっているよ。和歌ちゃんらしさがそれによって搔き消されることはないよ

というようなもの。疲れ切っていた私の心に沁みわたる、愛にあふれた言葉でした。


それに、やはり光厳院の厳しくも美しい生き方を見ていると、
自分らしさを前面に押し出して自分勝手に生きるほうが良い、とはなかなか思えない。
多少苦しくとも、美しいのはこちらのほうだ、私の選ぶべきはこちらのほうだ、という確信は日に日に増してゆきました。


そうしてふと振り返ると、あの時の彼女の言葉や私の確信は間違っていなかったな、と思われる現実があります。
一日、二日で現実が変わることはなかったが、長い時間を経て、気づけばとても心地よい人間関係が現出していた。


多少の努力や観察はいまでもします。が、全精力を傾けてするほどではない。
少し意識するだけで、その場にいる8割方の人間から好かれる配慮や振る舞いができている。というか、たいして意識しなくとも必要な観察や配慮がデフォルトでできるようになっている。
私らしさの抑圧をしながらがんばってそれをしている、なんて感覚は皆無です。いまはね。

その配慮のなかでも私らしい配慮というものがあるわけで、そこに私らしさは残っているし、アスペの特徴も残っている。
そんなもの、なくなりはしませんよね。ただ、アスペの特徴が大きなマイナスにならなかったり、逆にプラスに働いたりするようになりました。いえ、しました。

それに、これと確信したもの、それも和歌といういったいどこにニーズがあるのかよくわからないもののために安定的な生活を振り捨てて突き進むようなアホなことは誰にでもできることではないわけで、私らしさはそこに発揮され続けています。
そのアホさゆえに、大勢の読者さんに応援される現在があって。ある意味アスペのおかげです。


そうしていまは、過去の私の掛けてもらった言葉や、自分でつかんだ確信を、悩める若い後輩たちに掛けてあげる側に回っています。


「ありのままで愛される」は、基本的には幻想です。特に、社会に出てからは。

ただし、日々のたゆまぬ努力で“ありのまま”をアップデートしてゆけば、数ヶ月後、数年後には「ありのままで愛される」自分になっているかもしれない。
そんなにがんばらなくても自然と配慮でき、親切にでき、場を和ませられる、魅力的な大人になっているかもしれない。

それってすてきじゃない?


そんなふうに私は過去の自分に、そして過去の自分に似た後輩たちに言ってあげたいです。
(私に当たり散らしてきた優秀な先輩方には、言ってあげなーい)


30代後半の大人として

和歌のため、またその他いろいろな理由で、私は実子を持たない人生を選択しました。きっと、養子を育てることもないだろうな。
この先万にひとつ実子を授かったとしても、「育てられないなら私が引き取るよ」と言ってくれる友人がいるので、彼女に渡すつもりです。

ただ、下の世代の子、なんなら自分の子どもであってもおかしくない年齢の子たちに、厳しさも織り交ぜた優しさを言葉や姿勢で示してゆくことは、
実子がいなくとも養子を育てなくともできることであり、この世代の人間のすべきことだと思っています。
子どもや下の世代というのは、社会全体で育てるものだと思いますからね。


例えば永福門院は実子に恵まれなかったが、夫の子であり自分の猶子である後伏見院、またその子光厳院を愛育した。
後伏見の異母弟である花園院とも、猶子関係は持たなかったけれど、永福門院は深い信頼関係を結んだ。そのような信頼関係が育まれて然るべき振る舞いを彼女がしてきた、ということです。

そして、京極為兼や伏見院を失った後期京極派の指導者として、後輩たちに歌のうえで、また生き方のうえで大切なことを彼女は示し続けた。
それは、言葉で伝わっただけでなく、彼女と触れ合っているとおのずと伝わり影響する部分も多かったと思います。


人生の師として永福門院や花園院、光厳院というお三方(ある意味では伏見院も含めることになりますが、メインはこのお三方)を据えますと、
正直、彼らがあまりにもまっすぐに生きたため、「とてもとても」という気持ちになることも多々あります。
「まばゆし」「はづかし」(相手が立派である/そのためにこちらが恥ずかしくいたたまれなくなる)ってこういう感情を言うのだろうな。

ただ、「とてもとても」と思わされながらもその背を追わずにはいられない、その厳しくも優しい、美しい生き方を現代においてトレースせずにはいられない、強烈に惹きつける何かが彼らにはあるわけで。

そのトレースした結果の一端だけでも、いま触れ合っている後輩たちに伝わっているのならうれしいし、
きっと伝わっているのだろうなと思わせる表情を見せてくれる彼らのことがかわいくて仕方ありません。



アルペルガーであることの不利な面にばかり目が行っていた昔、こういう人間関係が持てるなんて想像できなかったな。
10年前、いや、5年前だって予想していませんでした。

しかし、いまそれがたしかにあります。
私をここまで導いてくれた光厳院や京極派歌人たち、そしてその歩みを諦めなかった過去の私自身に、心から感謝しています。


とはいえ、道のりは果てしない。まだまだこれからです!
この先の梶間和歌のことも、どうかよろしくお見守りくださいね。


京極派プチガイド

2020年に書いたプチレポートです。
その後京極派について学び続けてきた現在読み返すと至らない点もありますが、京極派を知る初歩の初歩としてはお役立ていただけるかと思います。


和歌活動を応援する

梶間和歌がつつがなく和歌創作、勉強、発信を続けるため、余裕のあります方にお気持ちを分けていただけますと、
私はもちろん喜びますし、それは日本や世界の未来のためにも喜ばしいことであろうと確信しております。

「この無茶苦茶な生き方を見ていると勇気がもらえる」
「こういうまっすぐな人が健康に安全に生きられる未来って希望がある」
なんて思ってくださいます方で、余裕のあります方に、ぜひともご支援をお願いしたく存じます。


noteでのサポート、その他様々な形で読者の皆様にご支援いただき、こんにちの梶間和歌があります。ありがとうございます。


特にこのたび令和5年の隠岐後鳥羽院和歌大賞で古事記編纂一三〇〇年記念大賞を受賞し、表彰式を含む大会のツアーに申し込み、ツアー代金(9万円弱)は生活費と別に工面することになりました。
そちらのツアーには無事参りましたが、翌年また城南宮・鳥羽殿賞を頂き、表彰式ツアーへの参加を希望しております。お気持ちとお財布事情の許します方に、ぜひともご支援を頂けましたら幸いです。

令和5年、6年分ともに、ツアーの様子はこのマガジンで連載して参ります。どうぞお楽しみに。


今後とも、それぞれの領分において世界を美しくしてゆく営みを、楽しんで参りましょう。


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