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梶原景時と橋本宿

「鎌倉殿の13人」第28回は、梶原景時が滅亡に向かうドラマが描かれていました。京都の高僧慈円は、梶原景時を鎌倉第一の郎等と嘱望されていたとし、彼とその一族を滅亡に追い込んだことは源頼家の失策と断じています(『愚管抄』)。
 
頼家の父頼朝は景時を評価し、和歌や連歌についても影響を受けていたようです。建久元年(1190年)10月頼朝上洛の際、二人は遠江国(静岡県)橋本宿で連歌に興じています(吾妻鏡』梶原景時)。

橋本の君には何かわたすべき        
(橋本宿の遊女には何を引き出物に渡そうか)
ただ杣川のくれてすぎばや   
(ただ杣〈材木の丸太〉川の榑でもくれて〈皮のついたままの丸太「榑」と「くれる」の掛詞〉過ぎ〈「杉」と「過ぎ」を掛ける〉たい)
頼朝の和歌の「橋」は「わたす」の縁語。景時は、「杣」「榑(くれ)」「杉」の縁語を駆使して、付けています。
 
二人が連歌に興じた橋本の宿は 鎌倉時代の東海道の旅日記の中で最大級の賛辞がおくられている土地です。鎌倉時代の紀行文『海道記』を引用してみましょう。
 
夕陽の景の中に橋本の宿に泊る。(中略)釣魚の火の影は、波の底に入りて魚の肝をこがし、夜舟の棹(さお)の歌は、枕の上に音づれて客の寢覚めにともなふ。(中略)大方、羇中(きちゅう)の贈り物はここに儲(もう)けたり。
  橋本やあかぬわたりと聞きしにもなほ過ぎかねつ松のむらだち(『海道記』)
  
南は遠州灘、北には浜名湖、その間には洲崎が横たわり、緑の美しい松林が続いていました。空には月と星が輝き、松風と波の音とともに、夜船を漕ぐ漁師の歌が聞こえてくる。
一度でいいから、旅先でこんな夜を過ごしてみたいものです。
 

 しかし、明応7年(1498)8月25日の東海地震によって、この美しい宿場町は壊滅してしまいます。マグニチュード8・2~8・4の規模の地震が東海地方を襲い、このすばらしい宿場町は、一日にして姿を消してしまったのです。中世の東海道の旅日記の筆者は、そんな悲しい未来が待っていることを知るよしもなく、美しい橋本の風景に酔いしれ、すばらしい土地の記憶として書きとめています。
 
頼朝と景時も、こうした橋本宿の夜空、海の景色や波音を堪能したのでしょうか。頼朝を感嘆させたという巧みな弁舌、和歌や連歌などを得意とした景時でしたが、頼家の代になって追放され、命も奪われてしまいました。しかし、その刃が、のちに頼家自身に向かっていくこととなるわけです。


 



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