源頼朝の上洛と富士山
昨日の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、頼朝が上洛しましたね。44歳。伊豆配流以来、約30年ぶりの京都、心中察するに余りあります。貴族をはじめ、後白河院までも見物したという大行列だったと言います。
ドラマでは、後白河院と頼朝が面会を果たす場面が描かれていました。二人が面会した場所は、以前noteに書いた六条若宮(若宮八幡宮)の北に位置する六条殿(院御所・六条西洞院西)でした。頼朝は、11月9日に後白河院と六条殿で面会した後、11日には六条若宮並びに石清水八幡宮に参詣しています。
https://note.com/wakahouse97/n/n9ba77f77f265
このときの京都滞在は約1ヶ月。頼朝は閑院内裏で後鳥羽天皇、九条兼実にも会っています。そこで語った頼朝の朝廷に対する有名な発言、宣言(八幡様のご託宣により、私は天皇に帰し、代々の天皇をお守りするのだ。~「頼朝すでに朝の大将軍たるなり」と云々)は、兼実の日記『玉葉』に書き留められています。
頼朝は、生涯に3度東海道を往還(下向も含めて)しています。昨日のドラマの上洛は2度目にあたります。
『新古今和歌集』には、頼朝の富士山を詠んだ和歌が収められています。おそらくは、2度目もしくは3度目(建久6年)の東海道の旅の途中に詠まれた一首でしょう。
道すがら富士の煙も分かざりき(見分けがつかなかった)晴るる間もなき
空のけしきに
(『新古今集』羇旅・九七五・源頼朝)
雲がかかって富士山の煙がはっきり見分けられなかったということを述べた、実に率直な歌です。
頼朝は富士山の煙が見たかった、和歌に詠んでみたかったのだと思います。なぜ見たかったのかというと、その背景には歌枕、あるいは東海道の羇(き)旅(りょ)の歌の知識があったからでしょう。富士山と煙については、谷知子『和歌文学の基礎知識』(角川選書)の「15 歌枕」に記しましたので、ぜひご一読ください。
現代の私たちが歌枕の風景を追体験したいという願いにこたえて作成したナビゲーションが「古典絶景 NAVI(ナビ)」(三菱自動車ウェブサイト https://www.mitsubishi-motors.co.jp/special/weekend-explorer/koten/)です。
富士山を詠んだ和歌・俳句と絶景ポイントは、下記を御覧ください。
古典絶景NAVI | 山中湖湖畔(山梨県) | 週末探検家 THE WEEKEND EXPLORER | MITSUBISHI MOTORS JAPAN (mitsubishi-motors.co.jp)
古典絶景NAVI | 薩埵峠展望台(静岡県) | 週末探検家 THE WEEKEND EXPLORER | MITSUBISHI MOTORS JAPAN (mitsubishi-motors.co.jp)
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