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亡くなったおじいちゃんが教えてくれたこと
「おじいちゃんが亡くなった」
1月6日の昼下がり、階段を上がってきた母の声。
92歳。
お正月からご飯が食べられなくなり、家族で延命治療はしないと話し合っていたので、心の準備はしていたつもり。
それでも鼻の奥がツンとして、「そっかぁ・・・そうかぁ・・・」としか言葉が出なかった。
私以外の大人は全ての作業を放り出して諸々の手続きに駆け回る。
時が止まった家に取り残された私は、スヤスヤ寝ている1ヶ月の子どもの前で生命(いのち)、人生についてしみじみ思いを馳せた。
ー そうか、「生まれた」と「亡くなった」って、1人の人間にたった1回ずつしか使わない言葉なのか。
ー 自分でその瞬間の前後を知覚することはないのか。
ー 人生は気づいたら始まっていて、気づいたら終わっているのか。
私の人生の時間は、毎瞬間は、1回きりなのか。
座っているお尻に重力を感じながらぼーっと考えている最中も
子どもは何事かを知る由もなくお腹を空かせ、生きるために大声を上げる。
人生が終わる時ってどんな感覚なんだろう
身体が終わりを迎えたらどうなるんだろう
分かってはいたけれど、改めて目の前にドンッと置かれた「死の瞬間」のインパクトはやっぱり強い。
どんな人生だったのかな。
私は初孫として、おじいちゃんの人生のストーリーに確実に刻まれていたはず。
92年の時間で、他にはどんな瞬間があったんだろう。
ああ、そうか。
全ての瞬間が人生をつくっているのか。
「袖触れ合うも他生の縁」というけれど、どんな少しの関わりでも人生に刻まれていくのか。
全ての人が、そうなんだ。
毎瞬間、心からの大好きを生きてる?
この1回の時間をどう楽しむ?
このことを心に置いて生きることが、命を大切にするということのような気がする。
そうしてその人の生命が輝くのかもしれない。
白い布をかけられて家に帰ってきたおじいちゃんの顔を見ながら
どんな人生やったんやろう、とまた思いを寄せる。
(92歳、まだ黒い毛があるのね。)
(こんなに顔をじっと見ることってなかったな。)
想像するだけでは、画面の中の情報としてだけではこんなに強く命を実感できなかったと思う。
数ヶ月前から少しずつできることが減っていくおじいちゃんを実際に見ていたから。
生まれたての子どもの成長と、綺麗に真逆に進んでいくことを実感していたから。
この身をもって対峙するから、触れるから感じることがある。
身体があるからこそできる経験を大切にしたいな、と思った。
最期の数日は家族の他にも弟妹、近い親戚が毎日会いに来てくれて、会いたかった人は全員会えたんじゃないかな。
お通夜とお葬式の日程が偶然1日ずれて、おじいちゃんはお母さん(私のひいおばあちゃん)のお誕生日を、生まれ育った家でゆっくり過ごせました。
お葬式の日は、少し雪が降ってツンとする快晴。
空気が澄んで、会場の外では湖の向こうの山々の尾根がくっきり見えた。
そして次の日は今年初めての大雪。
昨日で良かったね、と家族で話す。
基本的にマイペースで、でも周りの人のことも考えるバランスがおじいちゃんらしいなと思う。
もう会えないから寂しいけど、不思議と悲しくはない。
私に人生の時間をくれてありがとう。
この地球で私の身体が終わりを迎えるまで、どうか見守っててください♡