「理想を眺める描き方」と「現実を投影する描き方」について考えてること
お世話になっております。若林です。
僕はキャラを描く時、「こんな人達がこんなことしてるのを眺めたい」っていう思考と「自分自身を投影させた人物を動かしたい」っていう思考で描く時があります。
「徒然チルドレン」の時は前者の「理想」で描いていて、「幸せカナコ」では後者の「現実」で描いています。
僕が漫画を描けるようになったきっかけは、二つあります。
一つは「影響を受けた漫画」のコラムでお話しした、ヒロユキ先生の漫画の再現です。
これで漫画の文法を覚えました。
もう一つは、ラジオで「自分の憧れる妄想シチュエーションを発表し合う」っていう企画を聴いた時です。
高校生の男子部員と女子マネージャーが部活の休憩時間にいい感じになっているというシチュエーション。
男性ゲストが「その男子部員になりたい」って言ったのに対し、女性ゲストが「私は少し離れた図書室の窓から本をとんとんしながら眺めてたい」って言ったんですね。
それまで僕は「君の漫画には本音が無い」「欲望をさらけ出せ」みたいなことをずっと言われてました。
なので理想のシチュエーションに自分を入れるっていう形の漫画を描こうとしてたんですけど、全然気持ちが入っていかなかったんですね。
ただ理想のシチュエーションを遠くから眺めるっていう形にしたところ、めちゃめちゃ気持ちが入って、シチュエーションをより立体的に妄想できるようになったんです。
自分がかわいい女子マネージャーといい感じになるよりも、友達がマネージャーといい感じになってるのを見てる方が、楽しいし応援したくなるんですよ。
この時、友達(主人公)と、マネージャー(相手)と、見てる僕(読者)、3人の視点を同時に考えられるようになったんです。
まさに2Dから3Dになったくらいの変化です。
「徒然チルドレン」では「眺めていたい他人」をひたすら描きました。
ただ「幸せカナコ」では、もう眺めていたい他人なんて無かったんですね。もう全部描きましたし。
でも編集からは「社会人を主役にしたラブコメを描いて欲しい」と言われてて、悩んでいました。
社会人読者は社会人が主役のラブコメが読みたいっていうのもなんとなくわかります。
でも世の中にはそんなのいくらでもありますし、社会人は本当にそれが読みたいのかなと考えました。
「僕が社会人だったら、ムカつく上司をぶっ殺す漫画が読みたい」っていうのが、その時出た答えでした。
ただ今までの描き方では描けないことに、描いてすぐ気付きました。
そこに理想なんて無かったですし、そんなことより現実の辛さをカナコに受け止めて欲しかったんですね。
なので考え方の切り替えをしました。
「幸せカナコ」では、主人公に自分を投影させる考え方で描いています。
「徒然」と違って、カナコに誰か決まったペアがいないのもそういう考え方が元になってるからです。
でも描いててわかったんですけど、この「理想を眺める」と「現実を投影する」は、最終的に描くことは一緒で、入り口の違いにすぎないっぽいんですよね。
「徒然チルドレン」の時もキャラを理解していく上で「自分だったら…」っていう考え方しましたし。
「幸せカナコ」でもキャラの成長を描いてく上で「こういうとこが見たい…」っていう考え方をします。
数年前は理想のシチュエーションに自分を入れるっていう形ができませんでしたけど、今はどっちもできるようになりました。
結局、自己理解が足りてなかったんだろうなって気がします。
なので最近の僕の関心事の一つは、自分がどんな理想を求めていて、どんな現実を抱えてるかです。
この視点を手に入れたことで、今後もっと漫画を面白くできるんじゃないかと思ってます。