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ドイツ日記|海賊ボートとタイ兄弟

 また、変なところに来てしまったなと思う。仕事をしていた時も、これまでの人間関係との桁外れの違いに「留学してるみたいだ」と友達に話すことがあったけれど、本当に留学してみると、やはり「留学してるみたいだ」と思う。あまりの価値観の違いに日々困惑して、おろおろして過ごしている。自分の身に何が起きているのか、楽しいのか嫌なのか、自分でもよくわからない。

 語学学校の自習室で、「(語学学校の授業料は決して安くないはずなのに、語学学校に来る前に)どうして初級の勉強を終わらせてこなかったんだ?」とアジィズから聞かれたことがあった。彼はチュニジア出身で、深くは聞かなかったけれど家がめっちゃ貧しいという話を後日聞いた。

 他には、授業中に椅子に足を乗せ、片耳にイヤホンを当てて爆音で聞きながら課題を解くバレンティナがいたりする。ホセが椅子を後ろに倒してゆらゆらしたり、レアンが授業中に先生の前を通って携帯を充電したりと枚挙にいとまがない。モハメッドはいつも1時間は遅刻して来る。
 穏健でそこそこ名が知れているカールの堪忍袋の緒が切れたのも、あの日は致し方なかったと思う。

 自習室で、自分がコンセントを使いたいばかりに椅子にかけてあるジャケットをどかしたアザールや、3人で一緒に座りたいために机に置いてある教科書やらノートやらを追いやっていたウクライナ出身の3人組、こういうのを見るだけであ〜そういう感じね、と悲しくなったりする。

 タンザニア出身の父親をやっているアブラムからも、これがすごく面白いんだと、アメリカのコメディ・ドラマを見せてきた。日本人が丁寧にお辞儀しているシーンが俺はすごくおかしくて好きなんだと爆笑していて、彼に何を言えばいいのかわからなかった。
 「日本人は働き過ぎで過労死も出るくらいで、そこに住んでいる人の気持ちが分からない」とアブラムに言われた時は、お前には分からないだろうなと腹を立てたりもした。自分は「日本人はすごく長く働くんだ」と苦い顔をして愚痴を言うのに、他の人から言われるのは許せなかったりする。
 アブラムが、自分の話はすごく面白いだろうと言わんばかりにニタニタ笑いながら話していたり、クラスメイトに対して、子供の誤りを余裕たっぷりに教えてあげるみたいに話したりするのが全然許せない。

 自分がドイツ語ができることを周りに誇示せずにはいられない、パレスチナ出身のバシャーも、自分の話ばかりでうんざりする時がある。あんまり相手にせずに、ロシア人の友達、エルネストと話していたら、挙げ句の果てに「これを接続法(引用や伝言で使われる用法)で言ってみろ」とドイツ語クイズを出されたりした。クラスメイト相手にドイツ語でデュエルかよ。

 スウェーデン人の友人、ナータンとボートを漕いでいたら、他のボートが近づいてきて、よく見ると語学学校の知り合いだった。少年たちは「ありがとう〜!」「いただきますー!」と近づいて来て、リュックサックを強奪しようとしたり、うちのボートを掴んで前に進もうとしていた。
 ナータンは面白そうに、海賊ごっこに興じていたけれど、折角アイスランドの自然の豊かさや彼の音楽の好みを聞いていたのに、とがっかりした。のちに、「まあ俺はバイキングの血が流れているからね。君だって倭寇の血が少しは流れていないのか?」と軽く笑い飛ばしていた。
 その後、兄貴分のタイ人のトンナムが来て、「申し訳なかった」と謝られた。「ただ君と仲良くなりたかったんだと思う。許してやってくれ」としっかりしたドイツ語を18歳のトンナムが話しているもんだから、結構感激してしまった。つい「大丈夫、君が謝ることじゃないし、全然平気だよ」を言いそびれるところだった。

 翌日、トンナムが弟のトンクラーを訪ねに、俺のホストファミリーの家に来た時も、「重ね重ねになるけど、本当にごめん」と謝られた。彼の律儀さと兄貴肌はどこから来るのだろうと今でも考えたりする。
 あの時、少年はただ知っている日本語を並べたとは言え、海賊行為を思い返すと、「ありがとう〜!」も「いただきますー!」も、あながち間違っていなくて笑う。

 翻って、友人のエルネストはとても気持ちが良い。パソコンで教科書の音源が聞こえなくて困っているジャンを30分かけて助けたりしている。ジャンから「ありがとう」と拙いドイツ語で言われた時も、「いや、俺も楽しかったよ」と斜め上の返答をしていて良かった。

 先生のダリアとは、いつも授業終わりに日本の話をする。三島由紀夫『仮面の告白』、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』、村田沙耶香『コンビニ人間』と毎回一冊話していたら、だいたい別れる時間になっている。新しい日本人の名前を出すときは、いつも日本語らしい発音で言えるように、注意を払っているのが可愛らしい。一度、雪オミシーマと言われて、三島由紀夫だとは気付けなかったことがあった。「あなたが知らないはずはない」と黒板に書かれてやっと気づいた。
 今度、多和田葉子のドイツ語で書かれた本を貸してもらうことになった。随筆がとても味わい深いのだと聞いた。ダリアが言うのだからそうなのだろう。ドイツに来たばかりの時は、前髪がぱっつんだったから藤田嗣治みたいだと言われたりもした。藤田嗣治に思い入れはあまりないけれど、嬉しかった。

 クラスが上がる直前に、先生のパスカルにお礼を言った際も、「最初の授業聞いた時から、これがプロの語学学校の先生か!と思ってすげーびっくりしたし、授業はいつも楽しかったよ」と言った時、小さくパスカルがガッツポーズとしていた。「4年やってるからね。最初は上手くいかなかったよ」と話してくれた。彼の顔を見て、なんだか通じ合えた気がして、あたたかい気持ちになったりした。

 自習室で生徒の相談役になっているゲオルグには、A4で8枚にもなる奨学金へ提出する書類を見てもらったりしている。
 ドイツ語の動詞 umsetzen(〜を実現する)が、非現実から現実へ移して持って来るようなニュアンスを含んでいることを教えてもらった時は、

"Wenn die Idee des idealen Lehrers in Platons Ideenwelt wäre, würde sie durch du in der Realität umgesetzt."
(もしプラトンのイデア界に理想の教師というイデアがあるのなら、それはあなたによってこの現実に結実しているだろう。)

という例文を披露したりした。前半を言ったあたりで察したゲオルグは恥ずかしそうに、そんなんじゃないよと言っていたけれど、"Gut formulieren!"(文章の出来はいいぞ)と誉めてはくれた。

 タイから来た16歳のトンクラーが、新しいホストファミリー・メイトになったのが先週で、家のあれこれや家の周りのお店なんかを丁寧に教えてあげていたら、昨日、「ママ」というトムヤムクン・ラーメンを作ってくれた。インスタント麺で、日清のトムヤムクンフレーバーのカップヌードルより断然、本場っぽい味がした。日本人も好きな味だと思う。粉の量で本場度を調節できるのもいい。俺は半分しか入れなかったけど、タイ人は普通全部入れると言っていた。

 価値観や文化の違いに腹を立てたり、悲しくなったりする時もあれば、その違いをひょいと飛び越えてあたたかい感情で心を満たしたりもする。
 この違いは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の作者、フィリップ・K・ディックが端的に言い表しているように思われる。

わたしにとってこの作品は、人間とはなにかという疑問に対する初期の結論を述べたものである。……あなたがどんな姿をしていようと、あなたがどこの星で生まれようと、そんなことは関係ない。問題はあなたがどれほど親切であるかだ。この親切という特質が、わたしにとっては、われわれを岩や木切れや金属から区別しているものであり、それはわれわれがどんな姿になろうとも、どこへ行こうとも、どんなものになろうとも、永久に変わらない。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』訳者あとがき

 この小説の一際技巧が凝らされているところは、人間らしいアンドロイドも人間らしくない人間も登場して、もう誰が人間で誰がアンドロイドなのか分からなくなってしまうところだ。
 もう誰が人間なのか、アンドロイドなのか分からなくなった時、それを区別する人間らしさは、血液が流れているかオイルが差されているかではなくて、親切かどうかだというのが美しい。

 親切に、国籍とか育った地域とか、貧しいとか豊かとか、若いとか老成しているとか、そういうことはあんまり関係ない。人間らしい気持ちのこもったやり取りができる時は、相手を尊重している時だと思う。相手を尊重しようという心意気は、どんな形であれ相手に伝わるものだし、その逆も相手に簡単に伝わる。

 親切という言葉を紐解いていけば、相手に対するリスペクト(尊重)があると思う。相手という人間に対する尊重、相手の背景にある文化や言語に対する尊重、相手の今置かれている状況(特に困っている状態)に対する尊重、どんな切り取られ方であれ、人は尊重されたと思った時に、親切にされたと思う。

 だから、親切というのは「あなたの存在を認知して、大事にしたいと思ってますよ」というメッセージを発することを指すのだと思う。どのような存在として認知するのかは、人間として、日本人として、その場に居合わせたクラスメイトや通行人として、でもなんでも構わない。

 自分の普通を押し付けたり、他人に不親切でいるのは簡単なことだし、人種とバックグラウンドのるつぼのような語学学校では、誰かが尊重されずに傷を負うなんてことは日常茶飯事なんだと思う。いちいちそんな事故を気にして、他の人の分まで悲しんでいたらきりがない。

 けれど、「この場やこの場の関係に対してケアしてますよ」「あなたという存在を認めて尊重してますよ」という親切は、あればあるほど善い。少なくとも自分は、親切でいたいと思った。いい人に見られるようにセルフプロデュースするのではなくて、ただ人間らしくいたいと思った。不親切を目の当たりにすることが多くて、最近心が荒んでしまっていたけれど、タイの兄弟にかなり救われた。

 悲しんでいたり疲れていたりすると、親切に振る舞えないことが多い。自分を満たしていないと、相手にやさしくすることは難しい。体調や気分を整えることは、人間らしくいるために必要なことと心得る。

(おわり)







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建内 亮太
最後まで読んでくれてありがとう〜〜!