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狼の青年レゴシ、その愛と本能の行方 『BEASTERS』
Netflixアニメ作品『BEASTERS』の話をします。Final Seasonが楽しみです。
初対面の人と話す時に、過剰にあわあわしたりニコニコしたりする癖がずっと直らないでいる。元の性格なのも相まって、よく知らない人相手に堂々と振る舞うなんてできないし、自分を強く見せたくもない。本当は無害でありたいと思ってる。背を縮める癖がついたのは中学から。胸を張って歩くようになったのは社会人になってから。
だから、男であること、身体が大きいこと、それで凄んだり、箔をつけようとする人が苦手だ。力が強いこと、メスと交尾を求めるオスであること、そういうオスの価値観が共通言語になってるコミュニティとはいつだって距離を置いてきた。草食の男友達か、草食でも肉食でも女友達と一緒にいる時だけ安心していられる。
でも、こころのどこかで、本能の赴くままオスであることに身を任せている人のことを羨ましく思っている。だって彼らは健康だから。可愛い女の子に声かけてホテルに連れ込めるような男だったら、幾分人生はシンプルで楽しかったのかなと思ったりする。
もちろん好きな人にはかっこいい所見せたいって思うけどさ、男だとか、身長がどうだとか、力が強いだとか、そういうのは全部取っ払って、人として見てもらいたいと思っている。それって弱さなのかな。横で話してる時に、力で負けるなとか、押し倒されたら抵抗できないなとか、傷つけられるかもとか、そういうことがびた一文頭をかすめて欲しくない。周りの女友達は俺のこと、どう見てるのかな。
面倒な浮浪者に背を向けて壁になるのも、駅まで歩く間スーツケースを運ぶのも、同じベッドで一緒に寝るのも、その人を愛した後にはじめてやさしさになる。男であることは、その人をその人として眼差した後じゃないと役に立たない。関係を結んだ後に男であることが意味を持って欲しい。
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ハイイロオオカミの目つきの悪い主人公、レゴシ。実はとんでもなく優しくて、自分が肉食獣であることをどうにか隠そうと距離感や立ち振る舞いに神経を尖らせている。その気の弱さ、肉食獣ながら人畜無害でありたいと願う心に自分を投影せずにはいられなかった。自分が肉食獣であることに悩み、本能との距離感、他者との関係の結び方がわからなくてもがいている。他者に対して何を配慮するべきか、自分がオオカミであることをどう肯定するか、納得のいく生き方をずっと探している。レゴシは自分の本能という闇を見つめている。
レゴシはたった一年で、自分が生まれた種族・性別との折り合いをつけるための手がかりをしかと掴んでいた。体の大きい、力の強いハイイロオオカミのオスであることの責任を果たすこと、それはすなわち、自分より体の小さい、力の弱い草食獣を守ること。あまりに強い本能で自分を見失った肉食獣を助けること、自分がここに生まれてきた意味を、彼は他者への応答の中に見つけた。
でも俺の生き方はこれでいい。はみ出し者なりに尻尾振って生きていける。
世界はまだまだ学ぶべきことが山ほど渦巻いている。俺の生き方を探そう。
ウィーンに来て、ようやく尻尾振って生きていく仕方を見つけられた。もちろん、日本にいるときも永井玲衣や堀越耀介を見ながら、俺もいつかこうなりたいって思ったけれど、間近で同じクラスで見るのは全然違った。初めてなんだよ、哲学科の先輩で、この二人ともっと話せるならできることは何でも学びたいと思えたのは。こういうお兄さん、お姉さんになりたいと思えたのは。対等に話せたいと喉から手が出るほど望みながら、ずっと追いかけたいと思っている。ずっときらめいていて欲しいと憧れていてもいる。二人はとっくのとうに対等に見てくれているのに、勝手に目標にしている。
そうだよ、哲学している時、その人に本当に向き合っている時、もう性欲とか、この後終電がいつでどうやったら自分の家に連れ込めるかとか、どうでもよくなっちゃうんだ。ただもっと話が聞きたい、もっとこの思考の海を泳いでいたいと思う。
気の弱さも感受性の豊かさも繊細さも、全部人の話を引き出して理解することに向いている。自分の中で思索を深めることを一番の喜びとみなす内省の傾向と、いろんな情報があとで何かに繋がるはずだと興味を持って話を聞ける収集心の傾向も、その人がその人であることを理解するのに使い勝手がいい。
哲学者であること、自分の性格も性質も全部その中に詰め込んで生かすこと。目の前の何かに悩むあなたの話が聞きたい。何に悩んでいるのか、どんな概念を明らかにすべきなのか、どんな問いが目の前に立ちはだかったいるのか。あなたも知らなかったようなあなた自身に一緒に辿り着きたい。
もしくは、皆で対話もしてみたい。いつも仲良くしている時は決して言わないような一言を聞いて息を呑みたい。周りの人たちの多様な世界の見方を聞きながら、自分の築き上げてきたものが音を立てて崩れていきながら、なお残る鉄骨の輪郭を確かめてみたい。
その後に、皆で一緒に何か建てられないかもやもや考えてみたい。わからないことがもっとわからなくなりながら、それでも全く違う場所から同じ月を眺めるように、皆で目を凝らしたい。夕方が暗さを濃くしながら、それでもフォークダンスをするように隣の人と手を繋いで、火を囲んでいたい。他者の希求とつながり、自己の発見と受容、自然学校でキャンプファイヤーをするように、生きることの手触りを、自分という魂の輪郭を、もう一度確かめるための哲学対話をしてみたい。話がスノーピークみたいになってきちゃったな。
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俺も無害のままでいい。オオカミみたいに体躯で他人を守ることはできないかもしれないけれど、俺は自分の全部を賭けて哲学者として生きてみたい。そのためだったら何でもする。他のことはどうなったって構わないから、神様、俺を哲学者にして下さい。そうやっていつか、このために生まれてきたんだと心の底から叫びたい。その声が遠吠えとなってレゴシに届くように。
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