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寂しさを何で埋めるかにその人自身がある

先週、映画『悪は存在しない』を観ました。第94回アカデミー賞では『ドライブ・マイ・カー』で国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督の最新作です。まずは予告編をご覧ください。

結論からいうと、とっても良かったです。濱口監督の世界観は唯一無二で突き抜けていると思います。芸術的であり社会的であり何より美しい。

現代社会を鋭く見抜いて、それを芸術的に反映させた脚本といい、最小限に抑えた俳優陣の演技といい、美しい映像といい、解釈を観客に委ねたラストといい、とにかく全てが最高でした。観て良かったです。

ちなみに、この映画について友人のほしこさんと6月6日にTwitterのスペースで、この映画の感想について語りますので、もしお時間ある方は聞いていただけたら幸いです。このスペースをしていなかったから多分観なかった映画なので、こうやって好きなものについて話し合う機会を持っておくというのは自分の世界を広げるうえでもいいことだなとおもいました。

この映画の画面に常時漂っていたのは現代を生きる人間の「さみしさ」でした。少なくともこの映画を1回だけ観たわたしはそう感じました。それは何よりわたし自身が「さみしさ」を抱えているからなのかもしれません。その気持ちを投影している可能性は大いにあります。

とにかく登場人物のみんながどこかに「さみしさ」を抱えて生きていて、その上で生き方や働き方を選んでいるように見えました。ある人は誠実に、ある人は不誠実に。しかし、人と人が出会ったとき、そのどこかに歪みが生まそれがまわりまわって「悪」を生んでいるんじゃないかと考えさせられた映画でした。

人はなぜ寂しくなるんだろうと考えました。多分それは人と人が関係するときの、相手に対する思いの量の差があるのかなとおもいました。恋人同士が「わたしの方が好きの量が多い」ことにもやもやするみたいに。でも、そんなに簡単なことでもないのかなと思い直したりして。

そんなとき、坂口恭平さんがこんなことをつぶやいていたのを思い出しました。

「寂しさを克服する」「自分で寂しさをあやせる」という言葉にハッとしました。「寂しさを克服する」とはどういうことか。多分それは、自分が自分であるだけで、満足でき、平穏な心で生きていけるということなのかなとおもいます。そういう自分になることが「寂しさを克服する」ということなのかもしれません。他人軸で生きることから、自分軸で生きることへの転換とも言えそうです。

誰かに選ばれなくても、愛されなくても、自分で自分に愛を存分に注いでやれる力。それには自分が心からやりたいことを、やらせてあげるほかはありません。

そうと腹を括って、何をするかに、その人の全てが現れるのではないかなあと思ったのです。寂しさを埋めるためにマッチングアプリでお相手を見つけてもいいし、おいしいうどんを作ってもいい。何をしてもその人の自由だからこそ、その人の生き方が色濃く反映されるような気がします。それがその人の人間性なのです。

ある登場人物がマッチングアプリを使っている理由を聞かれて「さみしいんだよ。それに尽きる」と言っていました。そう思うとき、自分は何をするか、何でその寂しさを埋めるのか、それを問われているように感じました。それと同時に、わたしは哲学を学ぶことと文章を書くことで寂しさを克服したいとぼんやりと考え始め、これを書きながら、はっきりとそうおもいました。


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