多様性とは何か
多様性を叫べば叫ぶほど、多様じゃなくなっていく気がする。
さっきまで月1回のTwitterの日本語教師が集まるイベントの#日本語教師チャットに参加していました。日本語教師が同日同時間に質問に答えていくというものです。
今週の質問はこちらでした。
それでまあ、「多様性」という言葉が何度も何度も頭のなかをリフレインして、「そもそも多様性ってなんなん?」って思ったので、辞書で調べてみました。
たよう【多様】(名・形動)いろいろなものがあること。変化に富んでいること。また、そのさま。さまざま。↔︎ 一様。「多様ー」「ーな生き方」
(デジタル大辞林より)
日本語教育に置き換えてみると、まず学習者の多様性、教育機関の多様性、教師の多様性、教材の多様性、教授法の多様性など、「日本語を教える」ということにまつわるいろいろなものが多様です。で、その中で多様でないものといえば、「学習する言語が日本語である」ということと「教師と学習者の間で行われるもの」というのが多様でないということになります。
日本語教師チャットの質問はおしなべて、現在の日本語教育の業界に対する見方と、将来の展望のように感じました。そして、その答えが割とどれも「違いを受け入れる」とか「お互いを認め合う」とか「自由に」とか「学習者に合わせて」とかに統一されていて、目新しいような回答はどこにもなく、わたしを含めて、同じようなアカウントが同じようなことをつぶやいていて、これのどこか多様性なんだろうか?と頭をひねってしまいました。
日本語教育の世界で「多様化」という言葉を使うとき、どこかにそれは無条件に「いいもの」であるというベールを纏っています。そして、それに対応しなければならないという「圧」を感じます。「みんなちがって、みんないい」と思っているよね?そうだよね?という空気が流れています。もちろん時代はそういうふうに向かっています。
でも、それって本当に「多様化なんだろうか?」と思います。
今回でいえば、私が思ったのは多様でないものは「日本語」なのだから、日本語教師は「日本語」についての共通認識を確認する場所があったほうがいいということです。
そんなことをぼんやりと考えていたら、先日読んだ言語教育実践『イマ×ココ』(ココ出版)の巻頭の文章『めんどうくさい身体』で、春原憲一郎氏が書いていたことを思い出しました。
「我々ホモ・サピエンスは移動によって生き延び、地表を遍くおおった」とし、以下の文章を引用しています。
ジャワ原人もジャワ島に来てから独特な進化をとげた。「閉じ込められる」ことは、多様性の大きな理由であり、孤立した島嶼に固有種が多いのとまったく同じ理屈だ。ぼくたちホモ・サピエンスは十分に創造的で、地球上のどこにでもいける。だから均質だ。
ー川端裕人(著)海部陽介(監修)『我々はなぜ我々だけなのかーアジアから消えた多様な「人類」たち』講談社ー
社会は開かれれば開かれるほど、多様になっていくように思うけれども、実はその逆で、同じようになっていき、閉じられていれば閉じられるほど多様さが残っているようです。考えてみれば、ガラパゴス諸島の生き物が多様だと言われているので、そうですね。
だから、いいか悪いかは別としてTwitterで交流すれば、交流するほど、均質化は進むのかもしれないと今日の日本語教師チャットを見ていて思いました。「多様性」という言葉ひとつを考えてみても、その言葉の持つ意味や自分の目の前で起きていることをふんわりと捉えて話すのではなく、一歩立ち止まってじっくり考えたいと思った5月の夜でした。
(追記)
それともう一つ、多様性を考えるときに、私はよくブレイディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』(新潮社)を思い出します。
「多様性ってやつはものごとをややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」
「多様性はうんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」
違う文化の人たちが出会ったとき、きっとめんどくさい衝突が起こるのですが、その度に話したり、考えたり、学んだりして自分の世界を少し広げる作業が必要になります。
そうしながら、歩み寄っていくうちに、また新しい世界が作られ、人々は均質化していくのかもしれない。
人は人に出会って変わっていくいうことだなあとおもいました。
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