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母が破れた靴下を履くのがいやだった

幼い頃、冬の寒い朝早く、母がよく石油ストーブの前で着替えをしていた。わたしはその様子を近くで見ていた。母はわたしのほうを見るでもなく、せわしなく手と体を動かしていた。石油ストーブの暖かさは部屋全体に行き渡るまで時間がかかる。

母はタイツの上にいつも破れた靴下を履いていた。時々、タイツも破れていた。それが幼心にいやで「なんでお母さん、破れた靴下はくん?」ときいた。母は答えなかった。幼いわたしは母に破れた靴下は履かないでほしいと思った。

今ならわかる。なぜ母が破れた靴下を履いていたのか。家はそんなに貧しいわけじゃなかった。それどころか、父の仕事はうまくいっていた。それでも母は「もったいない」と言いながら、自分のために頑なにお金を使わないのだった。自分のために使えるお金がないのだからしょうがない。冠婚葬祭があるとか、親戚が下着や着物を売りに来るといった理由がなければ、父の手前、自分のものなど買えなかったのだろう。母は妊娠しづらい体だった。そのこともあって父には頭があがらなかった。

それから、時は30年以上流れて、わたしも母になった。自分で仕事をして自分のお金があるから、破れた靴下なんて絶対履かない。でも最近までのわたしは、忙しさにかまけて部屋の掃除をしていなかった。酒ばかり飲んで、どうでもいい食事をして、運動もせずにだらしなく太っていた。化粧も服も適当だった。とりあえず人前に出られると思う程度に整えるだけだった。

そういう自分の生活は母の生き方と全く変わらないとようやく気づいた。母の生き方を無意識に真似して、わたしは母のように破れた靴下を履き続けてきたのだった。気づくのが遅すぎる。

破れた靴下を履くという行為は、自分は破れていない靴下を履く価値がないと表現していると同じことだ。人にそんなことを言われたら傷つくのに、自分が自分を傷つけても知らぬふりをする。それが心をどんどん拗らせていく。そのくせ人からの評価や承認を求めて、それを心の拠り所にしようと見当違いの努力をする。苦しいはずだ。

そんな自分の考え方に心底嫌気がさして、できる限り生活を変えたいと今強く思っている。まず引っ越しをしたいので、部屋の掃除を始めた。それから健康のために毎朝毎晩の散歩を始めた。そうしたら、気持ちが良いこと、この上ない。空も美しいし、水も美味しい。鳥の声にうっとりする。鏡に映る自分の顔もいい表情だ。おそらく生きてきた人生で今が一番いい顔をしている。

そしてわかったのだ。「自分を大切にする」「自分を愛する」というのは、自分を自分で丁寧にケアするということなんだと。自分に甘いケーキを食べさせることでも、旅行に行かせることでもない。

娘に破れた靴下を履かせたくないとおもうなら、自分も履かないことだ。娘を優先させて、「自分はどうでもいい」じゃないんだ。自分は生きてるだけで価値ある存在だと自分でそう思ってあげなくて、どうして他人がそう思ってくれるだろう。

ああ、やっとわかった。多分、いろんな文章で、動画で、伝えられていることだ。わたしも何度も読んだし、何度も聴いた。でも心で理解できなかった。自分の卑屈さに向き合いたくないから、理解を拒んでいたのだ。ようやくその頑なささえ手放して、自分は変わる。変わることができる。今からでも、いつからでも。






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わかば
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