他人を評価したくなったら、人間は多面体だと思い出す
1月25日の日記。
水曜日は1週間で一番ハードな日だ。毎週、日本語学校で朝から晩まで働く。「前日から大雪になるから警戒」と報道などでも何度も呼びかけがあった通り、夕方ごろから降り始めた雪は、京都にも恐るべき速さで降り積もった。JR新快速に10時間以上も閉じ込められた人がいたようだ。
明けて25日。あたりは静まり返っていた。雪の朝のあの静けさだ。実家にいた頃を思い出す。外は5センチほどの雪だった。
「早く出ないと遅れるなあ。ってか、学校あるんかな」などと独言ながら準備をしていると、やはり「休校」との連絡。というわけで、一日休みになった。正直にいうとうれしかった。このところ忙しかったので、体力回復に努めようと思った。
それで、まずは集中して見られなかった「どうする家康」を見て、いつものように英語と日記と読書をしてから、少しずつ仕事に取りかかった。でも家族にいろいろと用事を頼まれたり、娘の高校進学のための面談があったりでそれはそれで仕事が手につかなかった。
でも、まあ、そんな1日もあっていいだろう。雪の神様がくれた家族と過ごす休みの日になった。
「ツイッターの呟きを見るとどんな人がわかる」みたいな呟きがあった。それについて考えた。
もちろん、わたしもツイートを見るとどんな人なのかは想像がつくし、それは大きくずれてはいないだろう。本人に対面であっても「やっぱりな」という感じだと思う。
だけど、それは自分の感覚でしかその人を見ていないのであって、その人には無限のその人の顔がある。たとえ、ツイッターで良い人に見えて、実際あって良い人だったとしても、他の人から見ればまた別の顔であるだろうし、一人の時には全く違っているのだ。人間は無限の多面体なのだ。だからこそ、おもしろいのであるし、愛すべきなんだと思う。そういうことを忘れないことが、無駄に人を評価することを防ぐ。
「この人はこんな人だ」「あの人はあんな人だ」と評価して決めつけてかかることは、実は自分とその人を比べる行為なんじゃないかと思う。人間のかたまりのなかで自分が埋没しそうになって不安になる時、序列ができると、自分の居場所ができたように感じるからだ。でも、それは一方で自分を消耗する行為でもある。なぜなら、自分か他人を評価するということは、自分が他人に評価されるということの裏返しでもあるからだ。
他人の評価に晒され、それを気にし続けると、消耗する。
だから、誰かにあっても「この人はこんな人に見える。でも、それは私から見たらの話」でできる限り忘れて、自分のことに集中するようにしている。
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