無視されるのも、蔑ろにされるのも、そのままでいいわけがない。私はここにいるんだから。
以前書いた記事で、ずっとコンスタントに読まれているらしいものがある。
ダッシュボードのビュー数は、実際に内容が読まれているものではないが、たまにチェックすると必ずこの記事が上位に入っていて不思議に思っていた。
昨日なんて、一年ぶりぐらいにダッシュボードを見てみたら、なんとこの記事が全期間ビューのトップになっていてビックリ。
なぜ?
4年も前の記事だし、内容はイマイチだし、一体なにが引っかかっているのかよくかわからない。
なんで?
でも、タイトルどおり「ないがしろにされている」と感じている人が多いのかもしれない。
なんて思った。
というのも、このところ「無視された気がする」と言ったお悩みや、「人の活躍が目立って腹が立つ」「ぜんぜん自己アピールが出来なくてしょんぼりしている」といった類の話がたくさん耳に入るからだ。
そうなんだよ。そんな時期なんだな。
*
デカルトさんは「我思うゆえに我あり」なんて言っていたそうだが、「私は、ここにいる」のに、まるで私がいないみたいに人から扱われたと感じるから、私達は色々考えてしまう。
でも、これは相手だけが悪いのだろうか?
それとも、自分を見てくれない周りの人に思いやりが足りないのだろうか?
仏教では、デカルトの「我思うゆえに我あり」は妄想だと言われるそうだが、自分がいないように感じられたり、大切に扱われていないように思ったり、そう考えているのは、実は自分の頭の中の妄想に過ぎない。「俺、ここにいるんだけど?」「私のことがイヤなのかな?」とモヤモヤしているのは自分だけの気持ちだ。
なにせ本当に無視されても、気にしない人は気にならないし、知らなければ気にもならない。
無視しているように見える相手は、今は他の人に目を向けているだけかもしれないし、忙しいだけかもしれない。怒っているように見える相手だって、腹が痛いだけかもしれない。だいたいは、そんなもんだ。
それに今は、ひときわそんな感じがする時なので、こうかもしれない、そうかもしれない、でも声を出してみたら、もっとどうなるかわからないし、、と「かもしれない」ばかりが頭をかけめぐってビクビクしているなら、まずは、そんな時だと思って落ちついて欲しい。
それから、「私だって頑張ってるのに、なんで私のこと蔑ろにするの?」とムカムカしているなら、そちらも同様。
しかし、安心だけでは恐怖から抜けることは出来ない。「じゃあ、しょうがない」だけでは、いつまで経っても『自分はいないまま』になってしまうので、それではもったいない。
「我思うゆえに我あり=考えている私がいる、それが私」が妄想だとしたら、「怖い、ムカつく、嫌だ」と考えていること自体が妄想に過ぎない。だから、「かもしれない」を怖がり、相手の状況を知りもせず勝手に腹立っているとしたら、頭のバグだと思った方がいい。
もしも今、蔑ろにされていると感じているなら
もしも自分を大切にしたい、されたいと願うなら
そう感じる時こそ、機が熟した時。
なんでもない時なんて動きようがないし、なんでもあるからこそ、なんとか出来る。だから、モヤモヤ、ムカムカする時こそ、チャンスだ。
まずは声を出してみよう。
俺がやる。
私はここにいる。
どうして?
なんかあった?
なんでもいい、どう動いたっていい。
モヤモヤしているより、数ミリでもいつもと違うことをすれば、妄想に気づき「我ここにあり」と実感出来るのだから。
自分で自分を蔑ろにしてはいけない。