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安楽死から、「最も自由な死に対する制度」を思考する

 つい先日、衝撃的なニュースが耳に飛び込んできた。ALS患者がSNS上で医師に安楽死をしたいと要望し、亡くなったというニュースである。もちろん当人の強い希望であったとしても嘱託殺人は法に触れる。大久保愉一容疑者は逮捕されることになった。

 このような前例のない事件は世間に少なくない衝撃を与え、安楽死に対する賛否交々多くの議論が交わされている。

 実は私も以前より「安楽死は果たしてなぜ禁止されているのだろうか」という、現行法に対して猜疑的な立場に立っていた時期があった。そしてそれを記事にしようとしたことも。しかし、記事にするにあたって思考を深め、そのデメリットをも考慮するうちに、果たして本当に現代社会に安楽死は必要であるのだろうか……と再度考え直し、投稿を断念した。

 そして結果的に、その選択は正しかったと言える。あまりにセンシティブな自死という問題に、私は自分の立場からでしか考えていなかったからだ。しかし今回私はこの事件をきっかけとした一連の議論を受け、新たにした思考を記事にしたい。今回も前回の記事と同様、まだ明確な答えが出ているわけではないが、しばしお時間を頂戴したく思う。

 それではまず、以前の私の考え方から順を追って振り返ろう。本題に入る前に、スタンスを確かにしておきたい。私が本件においての“正しさ”の基準に置いているのは、「個人が自分の意思で行動できる社会構造になるにはどの選択が正しいか」という視点である。それを踏まえて本題に入りたい。

 私がそもそも安楽死の禁止に対して疑問を持っていたのは、それが「死ぬ自由の制約」になってしまうのではないかと言う危惧からである。

 我々には当然に自由に生きる権利が存在している。そんな中で殺人行為が容認されていない背景には、人が人を殺害してしまうことにより、殺害された者の「輝かしかったかもしれない未来」が理不尽に奪われてしまうからだという思想があるのだと推測できる。

 これに関しては異論を挟むつもりはない。ただ、自殺においてはどうなのだろう。自らが自分のこれからの人生を「輝かしくない人生・生きるに足らない人生」だと判断した場合に、それに対しての救済措置がないというのに「自分の人生を断つ」という意思による選択ができないのは、自由なのだろうか。

 それは人口が減ることによるあらゆる不都合を国家が考慮した上での傲慢なのではないかとすら感じていたのである。

 そこで私が考えたのは、“死ぬ自由”を選択肢のひとつとして社会のルール上に追加して「望まぬ生」を滅するという一計だった。また、「いざとなれば死ねるから生きよう」という心持ちでむしろ生き延びることができる人もいるのではないかとすら考えていた。

 しかし、実態はそう簡単ではないらしい。

上記のような指摘がTwitter上でなされているのを見たときに、 安楽死というシステムは自殺しようと考えている層だけではなく、弱者へも大きな影響を及ぼすのだという気付きを得たわけだ。

 安楽死を取り入れることにより、「死ぬこと」はそれまでの社会より一層手の届きやすいところに置かれてしまう。そうなると、それを理由とした迫害が形成されてしまう──なるほど、これは盲点だった。

 しかし、だ。現在でも自殺自体は横行している訳で、このような「なぜ死なないのだ」的なイジメ言葉は横行しているように思われる。そのような状況で果たして安楽死がシステムに組み込まれるだけで劇的な、問題になるほどの変化は生じるのだろうか。

  2020年7月現在、安楽死を無制限に認めている国はないので(2002年4月に初めて安楽死が認められたオランダをはじめ、容認国の全てが高齢や病状の悪化を要件としている)、あくまで予想で語る他ないのだが、さほど数値的な変化は大きく現れないのではないかと予想している。「死ぬこと」に対する最大の恐怖は痛みや苦痛というより、死んでしまったら戻れないという不可逆性にこそあるのではないかと私は考えている。

 私自身もかつては自死に対する念慮を割と頻繁に抱く方であった。しかしそれでも最後までその決断を下せなかったのは死ぬのが苦しいからというより、「これで終わってしまう」という恐怖であったように思える。もっとも私はそれでもひどいいじめに遭っていたなどの劇的なことはなかったので、そういった人達の苦しみ・思考を正確に汲み取れているとは思っていない。これもあくまで申し訳のないことに憶測でしかないのかもしれないな……。

 では、そのようなことが問題でないとするならば、全体何が問題となるのだろう。現在、安楽死問題に際してネット上で散見される「優生思想」という言葉について取り上げたい。

 「優生思想」とは簡単に言えば、「進化論的にいうならば優れた種が存続していくのだから、優れていないモノは排除されても仕方ない」とする論調のことである。

 懸念されるのは、安楽死によってその流れが加速してしまうのではないか、ということだ。たとえば障がい者や寝たきりの患者などがこの排除されるべきだとされる層に当たるのだろうが、それらの方々が意思決定をできないとするならば、安楽死を選ばせて、健常者のみが過ごしやすい社会にすべきだとする主張が成り立つ可能性がある。

 たとえ意思決定ができるにせよ、介護されている老人が本当は生きたいのに家族に迷惑をかけまいと「安楽死させてくれ」と意思表示をする可能性がある。それでは個人が自由に意思決定をできる社会と乖離してしまう。

 そういった意味で私はマクロ的にはrei氏の主張に完全に賛同している訳ではないが、広義では同様の危険性を危惧するに至ったのである。

 であるから、安楽死に関して言えば、社会で無制限にそれを認める方がデメリットとしては大きいのではないかと思う。「安楽死は犯罪である」という敷居の高さを維持し、それを超えてまで安楽死を選択すべきかを考えさせる意味でも、その法制度は意味のあるモノではないかと思うのだ。

 ただ、病気などにおいて自殺すらする能力が奪われてしまっている患者が心から苦しく、死を望んでいる場合にも自死を選べない残酷も現代の社会は内包していると言える。「苦しいだけの生をまっとうしなければならない」という不自由は、果たして正しいと言えるのだろうか。

 きっと、完全に死に対して自由な意思決定ができる日は訪れないだろう。どちらにせよ、それぞれの不自由が生じることは想像に難くない。しかし、もしかしたら慎重な条件の整備を行った上での安楽死の導入が、最もフェアな死への向き合い方なのかもしれないと、今回の件を通して私は考えてしまった。


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