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【短編小説】和女食堂・すき焼きプレート

大学を卒業して渋谷のデザイン会社に就職したときからずっと、わたしは最寄りが渋谷駅のエリアに住み続けた。

会社を辞めてフリーランスのデザイナーになり、結婚して子供を産み、引っ越し回数は計4回。渋谷区東、神宮前、桜丘町、神宮前をグルグル。

結局、神宮前が一番快適で好きだった。アパレルメーカーの本社で働く夫も徒歩で通勤できたし、子どもたちを取り巻く環境も何かと安心できる。わたしの仕事関係の相手先も近場に多く、お互い便利だった。

その生活を、とてもとても気に入っていたのに、夫が年老いた両親の近くに住みたいと言い出した。70代の義父母は元気に二人暮らしを楽しんでいて、何の不自由もしていないのに。

今年に入って夫の親友のご両親が相次いで亡くなった。そのときのご友人の激しい気の落としっぷりに心が揺れて止まらなくなったのだと彼はいう。

「いつかは親のそばに行って暮らしたいと漠然と思っていたんだ。なかなか言い出せなくてごめん。そのいつかが来る前に、永遠に会えなくなったらいたたまれない。うちの親は老人ホームに入居する準備をしてあるし、将来的にキミに介護を任せたりない。それに、近くにマンションを買うなら親がお金を出すと言ってるんだ。考えてもらえないだろうか」

マンションを買ってくれるですって?

複数の不動産を持つ義父母にとって、わたしたちのマンションの購入資金を用意することや、自分たちが高級老人ホームにいつか入居することは難しくはないのかもしれない。寧ろ最初からその予定だった可能性さえある。

ずっと賃貸マンションを転々としてきたわたしにとって、分譲マンションへの憧れはある。あまり無理して買わずとも、一生賃貸でもと思っていたが、手に入るとなるとチャンスな気がしてくる。

場所は選べないとしても、大森は渋谷まで電車で20分だ。昔からの住宅地で治安も良い。そう悪くない話なのか。

3日ほど考えて、OKの返事をした。夫は涙を滲ませて喜んでくれた。これでいい。もう決めたんだ。

子どもたちの夏休みが終わる前にと、大急ぎで引っ越した。びっくりするほど商店街が多い町。その商店街のメインストリートから少し奥に入ると、昔ながらの高級住宅街が静かに広がる。

落ち着いた佇まいの低層マンションが、今のわたしたちの家。夫の実家まで徒歩3分。こんな急に、よくこんなマンションが見つかったものだ。

「うちの一族には土地の神様がついてくださっているんだ。だから色々な意味で守られてる。この土地にいると、きみも子どもたちも運気が良くなるはずだよ」

普段はスピリチュアルみたいなことを一切言わない夫が、スルッとそんな話をした。ちょっと驚いたけど、本当かも。夫の一族はみんな運がいい。それぞれが好きなように生きていて、ストレスフルな人が誰一人としていない。

考えてみれば、わたしも夫のそういう緩やかさと寛容さに惹かれて結婚したんだった。

「いらっしゃいまへ。お、初めてですね。ようこそですー」

「はじめまして。義理の母にお噂を聞いて伺いました。最近こちらに引っ越してきた者です」

「あ、そうなんだー。どこから?」

「神宮前です」

「あひゃ! そいじゃこっちは物価が安くて驚いたでしょう。野菜もお肉も大体半額だよね」

「いやまさに。売ってる品物の品質も良くて半額で驚きました」

輸入食材や高品質なパンやスイーツはなかなか見つからないけど、日常使いの品物は本当に安くて品物が良い。これは大森に来て一番驚いたこと。

義母はお友だちとときどきここの食堂に来て、食事をしながら店主さんも一緒になっておしゃべりをする仲だと聞いた。世代も違うのに、一体何の話をしてるんだろう?

「わたしね、神宮前のボイトレ教室に8年間通ってたんですよ。懐かしいな。それで今はたまに小さなライブハウスでジャズやソウルや演歌を歌ってるんです」

「ああ、義母も演歌を習っているんです」

「あー! 花江さんかな?」

「そうです!」

そういうことか。それにしても、ライブハウスで歌を歌いながらここで食堂をやってるのか。今時はそんな人も多いのかしら。

【お品書き】 
A4和牛すき焼きプレート 1100円
ナポリタン 200円
貧乏人のパスタ 150円
マッケンチーズ 200円
ベビーリーフサラダ 150円
冷奴 50円
バター醤油うどん 150円
ハインツの缶詰のカレーライス 400円
もり蕎麦 200円
おにぎり 10円
おかかおにぎり 20円
おかかチーズおにぎり 50円
ネギたまごチャーハン 120円
ケチャップライス 100円
バタール 30円
シチリアのマーマレード 200円
味噌汁(玉ねぎ、豆腐)60円
ごはん 10円
麦茶 20円
アイスオレンジティー 40円
九州銘菓さが錦 150円

今日は夫が子供たちを連れて有楽町に映画を観に行ってる。ひとりきりの時間をゆったりと過ごすため、家から出て外食を選んだ。

義母が、ここでは大体一番上に書いてある料理を頼めば間違いないと言っていた。ではそれにしよう。

「すいません、すき焼きプレートとごはんとアイスオレンジティーをお願いします」

「はいはい!お待ちください」

丸見えのキッチンで彼女は豆腐と野菜を切り始めた。牛脂を溶かす匂い、豆腐を焼く音、野菜を炒める音。最後に肉を焼いて割下の匂いが一気に香ばしく広がった。

「お待たせしました〜。すき焼き。お、生卵忘れた」

「あ、結構です。生卵苦手なので」

独身時代、友だちとすき焼き屋さんに行くと、溶き卵を使わないわたしを見てみんな口々に「一度使ってみなよ。絶対美味しいから」と言ったものだ。おつきあいで試してみたが、やっぱりないほうが美味しい。

「すき焼きに溶き卵をつけないなんて、人生損してる!」

と言われたこともある。余計なお世話だ。あなたの人生って、すき焼きについてくる溶き卵ぐらいの価値しかないの?って、心の中でいつも反論していた。

溶き卵をつけないすき焼き、やっぱり美味しい。白米が進む進む。長ネギの焦がし加減もちょうどいい。

「この辺は渋谷の辺りに比べると本当にのんびりしていて、人生に隙間時間があることを喜びに変えてくれるんですよ。大森は古い歴史のある町で、時間がゆっくり進むんです。最初は違和感あるかもしれないけど、この土地に慣れてきたら楽になりますよ」

「なんか少しわかります。渋谷にいたときは、あれもやらなくちゃこれもやらなくちゃ、いっぱいやらないと損するって思ってました。今は何も予定のない日が幸せ」

「でしょう! あれもこれも詰め込むのが幸せとは限らないですよね。料理と同じなんですよね」

ああそうか。溶き卵、ないほうがいいもんなー。

それだけ話したら彼女は別室に消えた。久しぶりの、ひとりきりの時間。なんにもしなくていいって、なんて充実してるんだろう。

「ごちそうさまでした」

「はーい! 1150円です」

わたしが帰るとき、彼女も一緒に出てきて看板をしまっていた。

「もう終わりですか? まだ明るいけど」

「いやー今日は外食に行くんですよ。インプットというより休憩。休憩するとまた何かしたくなる。そんなもんですね」

なるほど。わたしもまだ家族が帰ってくるまで時間がある。何も決めないでぶらぶら散歩しようかな。渋谷みたいに新しいお店があちこちあるわけでもないけど。

そういう変化のなさに退屈するのではと恐れていたが、逆に解放感がある。

自分が少し大森の住民になれた気がした。

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