心の根元 起点

それほど酷い環境で育った訳でも、凄惨ないじめにあった訳でもないのに、
どうして私の心はこんなに萎れているのか
ずっと不思議だ。


ただ私は、具体的な事象より抽象的な概念を好みよく考える傾向がある。
ならば私の心的外傷があるとすれば、「他者から何かをされた」というような具体ではなく、もっと曖昧な、空気とか雰囲気とか流れとか、そういった"何か"にすごく傷ついたことがあるor傷ついている、のかもしれない。


しかし抽象的な概念を好むのだって、先天的にそういう頭であるというよりも
具体を考えることに失望して嫌いになって、事象について問う価値を自ら貶めたから、かもしれない。


たくさんの本を探せば、このわかりにくい疑問を解く一文が見つかるかもしれない。でもそんなカテゴリーに当て嵌めて、現状を認識して、安心して、
そうすれば満足できるだろうか。
ずっと頭にちらつくこの穴は、いつか誰かが埋めるものだと、心の奥底で思っていた。
ある日誰かと愛をやりとりして、あたため合い、交わし合い、そうして誰かがピースとなってこの穴を埋めることで、普通の人間になれるのだと、無意識に考えていた。
本当にそうだろうか。



頭に巣くうこのモヤモヤは、
他者から提供されたもので晴れるほど、
簡易なものだろうか。





20年くらいを掛けて造り上げたこの絡まった毛玉は、色々道具を掻き集めたとて、ほどけるものだろうか。
あと60年くらい人生ありそうだ。長い。
これからも幼い拙い未熟な頭で造り上げた難解な毛玉と向き合い続けるのだろうか。60年の長い時間ずっと、過去を振り返って生きるのだろうか。引きずって生きるのだろうか。
それ、必要なことかな。


毛玉をこねくりまわすと、
もっと毛玉が大きくなってしまう気がする。


すごく良い道具を仕入れても
糸を解くことができなかったら、
また失望して、
もがいた分だけ毛玉が大きくなる。
回数を重ねる毎にぐちゃぐちゃになって重くなって抱えていられなくなりそうだ。



「人生どう生きたいか」と問われれば
私は即座に「楽しんで生きたい」と答える。
シンプルで至極当然の回答。
その純粋な願いには既に行き着いている。
ならば、

この毛玉を解かなければ私は楽しく生きられないのか?
一番好きなことをしている時、とてもとても楽しい時、この毛玉のことを考えずにはいられないか?

否、忘れて楽しむことができる。



ならばこの毛玉は、
絡まったまま放置していたところで特に問題は起きないのではないか。


何故か、
この毛玉を解かなければ自分の人生は好転しないと思っていた。
自分らしく楽しく良い人生を送るためにはこの毛玉を解くことが必須条件だと思っていた。
絡まった毛玉を解いたところから、生きやすい人生が始まるのだと思っていた。

そんな固定観念があった。


、、、。
もしかすると、そうでもないのかもしれない。










こんな心地もまた、どこかの本に書かれていそうだ。むかつく。


いいなと思ったら応援しよう!