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エッセイ 演歌

  生業上の流れで、最近以前と比べて格段に高齢者と接する機会が増えた。

 ここで私がいう高齢者とは2015年現在で、満年齢が65歳から80歳過ぎまでの人をさす。終戦の年に生まれた人が今年でちょうど70歳だと思えばわかりやすい。

 私が日常的な付き合いで、ごく普通に接して話ができる高齢者のほとんどが、たとえ戦争中に生まれていたとしても、実際に戦地には赴いた経験がないであろう……と思える時代にまで戦後が進んだことになる。

 その高齢者らに音楽の好みの話を聞くと、極めて高い確率で《演歌》という答えが返ってくる。
 演歌こそが日本人の心であり魂であると彼らは自信を持って言うのだ。

 しかし昨今何気に使われる《演歌》という音楽ジャンルが、さしたる定義もないまま、ほとんど情緒と雰囲気だけで語られていて、実は戦前から連綿と引き継いで来た日本古来からの伝統とはほど遠いものであるということを理解する者はほとんど居ない。

 今の《演歌》は、それまでは《流行歌》や《歌謡曲》に含まれていて、《日本調》として、当時の《洋楽調》と区別されていたといえる。

《演歌》の語源は、明治時代の自由民権運動の産物だった《演説歌》だと言われる。
 その流れは、昭和初期に一度ほぼ完全に衰退したのだが、昭和40年代になると、《演歌》という名前だけがどこからともなくまた現れて、あっという間に業界内で成立し、すぐに一般大衆にも認知されたのである。

 だからといって私は《演歌》を真正なる日本文化ではないなどと一方的に非難するつもりはない。

 逆に《演歌》や《歌謡曲》が、どちらかというと旋律やリズムや楽曲編成よりも、"歌詞"に重点を置く歌として、平成に入ってから著しくとり残された負け組どうしで結びつき、ひとまとめにされて《昭和歌謡》という新たなジャンルが自然に立ち上がってきたという面白さを感じざるを得ないのである。
 
 さて、ごく最近(※本稿執筆当時)に私が書いた歌詞である。

 昔のモノクロテレビでの興奮を、白内障を患った眼と心で振り返って探った。

 すでに作曲も終え、実際の歌唱も、ほぼ内定している。そして、ほとんど意味なく私は悩んでいる。

 果たしてこの歌詞は、演歌なのであろうか……。
 
 
   《帰りたいな》
      作詞作曲  久保研二 
 
(一)
 
    夢があるよね
    温もり感じてた
    薄汚れたブラウン管の
    懐かしい景色
    覚えているよ
    忘れないよ
    幼い心を震わせた夜
    もう一度あえるなら
    帰りたいなあの頃に
 
(二)
 
    夢を見てたね
    優しさ溢れてた
    チラついたブラウン管の
    懐かしいメロディ
    覚えているよ
    歌えるよ
    幾つになっても
    色褪せないから
    もう一度あえるなら
    君を連れて帰りたい
 
    もう一度会えるなら
    帰りたいなあの頃に
 

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