エッセイ 眠たいこと言うたらあかん
偶然耳にした昭和歌謡を聴いて、突然昔の記憶が蘇りました。
それは、1990年の秋。
HONDA レジェンドがフルモデルチェンジして、一気に大型化した"スーパーレジェンド"になった時のことです。
当時私は、HONDAのカーディーラーで新車を売っていたのですが、Kさんという馴染みのお客様の紹介で、車で片道1時間半ほどの、Sさんの自宅に、営業に行きました。
紹介してくださったKさんは、
「Sさんは、ちょっと怖いけど、ほんまに怖いのはまわりの人間で、本人自身は"やんちゃ"やけど、おもろい人やから……とにかく、久保さんからの電話を待ってはるので、とりあえず一報いれてください、よろしくたのみます」
と、いうことでした。
それで電話をしたら、第一声が、
「レジェンド買いたいねんけど、近くのHONDAに聞いたら、8万しか値引きできひん、ゆうて、めちゃ"眠たいこと"を言いよるねん。
久保さん、15 万円値引きしてくれたら、すぐ注文するわ」
私は、
「たしかに、今、それが協定というか、表向きの相場ですが……ちょっと、10 秒待ってください」
と、電話を保留にして、横にいた店長に、念のためにサバをよんで、
「20万引いたら、即、買う、ゆうてはりますけど」と、いうと、
「久保くん、このさいもう、それでいってまえ」
と、言うので、すぐに、
「了解です。そのかわり、ひとつだけこっちの条件を聞いてください」
「どんな条件? "眠たいこと"は、言わんといてや」
「20万引いたゆうこと、よそのディーラーには、絶対に言わんといてください」
「ハッハッハッハッハ……5万増えてるやん? わかった。久保さんのこと、ワシめっちゃ気に入ったわ、話が早い!
よっしゃ、ほんならあしたでも契約書持って家に来て、それ以上グズグズ、もっと値引きせえとか、口が腐っても言わへんから、値引き額書いた契約書持ってきてもええで」
そこで、住所を聞き、ついでに行き方も。
ここから先は、デリケートなので、文章にモザイクをかけます。
「あのな、〇〇道の〇〇出口を降りた信号を右折したら、しばらく行ったら右手に交番があるわ。
その交番で、〇〇の家というたら、丁寧に教えてくれるさかいに」
私はそのとおりに、交番で道をたずねると、警官2人が立ち上がり、
「あんた、いったい何もんや?」
「私は、HONDAのセールスですけど」
「おたく、それ、どこの家か、わかって行くんか?」
「いいえ、知りません。お客さんに呼ばれて、契約書持って、これからご自宅に伺うんですけど、なんか問題あります?」
「わかった……とにかく、家の前まで案内するから、後ろをついてきてくれるか?」
いやな予感がしながら、パトカーの後ろをついて行くと、ほんの5分ほどで、パトカーが左に寄ってハザード焚いて停車したので、私もその後ろに車をつけました。
警官が降りてきて、
「この奥の家やから、なんかあったら、すぐに警察を呼ぶように」
と言って、彼らは立ち去りました。
私は、恐る恐る奥に進み、玄関のブザーを鳴らして、家の中に招き入れられました。
出迎えたSさんの、ひとことめが、
「ちゃんとポリさんが、案内してくれたやろ?」
「はい……」
「心配せんでええで、この家な、もちろん、ワシの親の代からの家やけどな、実は、殺された〇〇が産まれた家やねん。
ほら、あの部屋で、産婆が〇〇をとりあげよったんや」
「そ、そ、そうなんですか……」
〇〇というのは、あの〇〇で、5年前に射殺された、その筋の超大物です。
驚いている私を見ながら、
「かあちゃん、ちょっと久保さんに、珈琲でもいれたってぇな」
すると奥から、化粧は決して濃ゆくないのですが、妙に素人離れした顔つきと雰囲気の女性が出てきて、
「はじめまして、珈琲と紅茶、どっちがいいですか?」
「すると、Sさんが」
「そんなもん、久保さんは、珈琲がええに決まってるやないか」
「それは、〇〇ちゃんが飲みたいんでしょ? 私は、この人に聞いてるの」
「いえ、私も、珈琲がありがたいです」
「ほれ、みてみい」
「それで、お砂糖とか要ります」
すかさずSさんが、
「そんなもん、要るに決まってるやん」
「〇〇ちゃんには、聞いていません」
「私、何もいりません、ブラックで……」
「うそっ? ワシ、砂糖3杯入れな、珈琲ようのまんねん、ようそんな苦いもんのめるなあ」
その後、珈琲をいただきながら、その女性を見ると……めちゃくちゃ、似てるのです。
私の2歳年上の、とある歌手に。
私が30歳の時ですから、その女性は、32歳になります。実際には、もっと年上で、しっかりしている、より大人びた雰囲気でしたが。
しかも、私がかなり好きだった歌手。
バレないように、しげしげと顔を見ていましたが、疑念は深まるばかりです。
けれども、まさか本人やSさんに確かめるわけには行きません。
車の契約はスムーズになされ、早々に退散しましたが、滞在したほんの1時間のうちに、私は年上の女性の魅力に、すっかりヤラれていました。持ってるオーラが違うのです。
その時は、さっきの女性が、本物の〇〇〇〇かどうかは、すでにどうでもいいことでした。
あれから30年の歳月が流れ、いまだに、あの時の真相は闇の中です。
もちろん、他人の空似ということは、多々ありますから。
また、真実を知るより、私の記憶の中で、夢、幻のまま、棺桶まで連れて行った方が、私は幸せなのかもしれません。
ところで、ようできた歌詞です。
やっぱり、昔の昭和歌謡は、ええですね。
ちゃんとした実力があるプロが作詞してますからね。
歌詞を読んだだけで、泣けてきます。
♪
東京ららばい
夢がない 明日がない
人生は 戻れない
東京ららばい
あなたもついてない
だからお互い
ないものねだりの子守唄……。