価値観
私には、特に歌や文学なんかで自分の「価値観」と外れるものを「嫌悪」する気質が充満しています。
けれども、そのたびごとに自らの感情や理由を、反省もこめて検証するようにしています。
「価値観」のズレは、個性のズレや好みの違いとよく似ています。
この個性の違いを否定すると、私たちの……あえて業界……のようなところでは、自己矛盾が生じ遅かれ早かれ存在できなくなります。
楽器ひとつにしても……たとえばギタリストがサックス奏者に対して、お前は悪趣味だとバカにするようなものです。ありえんでしょ?
好き嫌いは置いておき、ギタリストはギターを選び、サックス奏者はサックスを選んだのです。どこかの時点で必ず自分自身と対話をして。
たとえそれが成り行き上のことであっても、受け入れたのは自分自身なのです。
ですから「価値観」の違いの「嫌悪感」は、そんなところにはないのです。そこに対立の図式を導入すると、最後は宗教戦争にまで発展してしまいます。
「価値観」の違い……といっても、それを自覚するのは、やはりまずは具体的現象です。その次に、方向性やパワーだと思います。
パワーというのは、迫力があるというよりも、たとえば深く潜る性能であったり、煮詰める火力であったり、遠赤外線のワット数だったりします。
方向性はまさにベクトル。その人がどこに向かっているかの軸のことです。
それらを判断基準として、具体的な現象がそのデータや材料になるわけです。
もちろんそのバロメーターは、私の心、魂のセンサーが識別することです。
センサーの性能もメーカーもピンキリです。
あえて具体的に述べれば、ベクトルにおいては、
「向上心」「学習意欲」「探究心」などが、必須で、逆に、「金銭欲」「名誉欲」「業界的上昇欲」「自己満足」「自己陶酔」は、アウトとなります。
そして現象としては、たとえば、
「むやみに笑う芸人」
「舌を巻いて歌う歌手」
「歌詞を軽く扱うシンガーソングライター」
「目をつむって歌う歌手」
「安易に人のモノマネをする人」
「誰かのスタイルを模倣する人」
「歌詞の根底が浅いシンガーソングライター」
「歌詞を理解せずに歌う歌手」
「聞かせてあげてるという態度で歌う人」
「無反省な人」
などになるわけです。もちろんほかにもたくさんあります。
「嫌悪感」の問題は、それが「排除」につながるところにあります。
小池さんが言ったアレです。
それは人間社会的にまずい。非常にまずい。
もしも私が教師や宗教家……まあ政治家も入れておきますが……そういう職業の人間なら、「排除」の論理は好ましくありません。
けれども私は違います。
自分に嘘をついたら行き詰まってしまう、そんな特殊な仕事をしている人間です。こわくないヤクザはヤクザではない、という理屈にも似ています。
もっといえば、自分自身の思いや言葉や好みでさえ、見切って排除しつづける仕事でもあるのです。
創作とは削ることでもあるのですから……。
歌詞を書いたり文章を書いたりするということは、そういうことだと思います。
ですから私は、素早く見切って、悪いけど……思い切って排除します。
今度の人生はたぶん一度きりだし、楽しい散歩ならともかく、苦痛を伴う寄り道は一切したくないからです。
ただし例外があります。
それは無我夢中で懸命に努力したりもがいたりしている人を見かけた時。
この「懸命さによるもがき」は、ベクトルやパワーや深さや技術や学歴や出自や性別や国籍や……そんなのをすべて、とりあえず帳消しにするスペードのエースかジョーカーのような力を持つのです。
溺れている人がいれば全力で救うのが人間の原点・基本です。
アーティストもミュージシャンも先生も金持ちも、そこでは関係ありません。あたりまえです。
ただし、溺れている場所が海や池や川ではなく、自分自身の心にあるドブの場合は別です。
そんな人はぜひ、そのままおやすみください。安らかに、永遠に。
そうですよ、そうなんです。
いざとなれば、私はこんなふうに、実に冷たい人間なのです。