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エッセイ 一瞬と永遠

 【一瞬と永遠】  
        
 
 私がハンドルを握っているのは、「日本の歴史はこの車の後部座席でつくられた」とさえいわれる黒くて大きな車である。

 普通は皇室や大臣が乗る。国産なのにセルシオよりでかいのだ。
 こんなのが高速道路をゆっくり走っていると、素人は誰もあえて近くに寄り付かない。
 
「この車、とばしてもやっぱ静かですねえ」と助手席の若い社員が言った。

 私はこういう場合、相手を単に青年と呼ぶ癖がある。

「あたり前や青年、乗用車にこんな大きなエンジン積んだら豚でも走るがな。それだけやないで、こんなふうにこう、運転しながら足をあげれる」

 私はとっくに靴を脱いでいた左足をぐいっとダッシュボードの上へ持ちあげ、フロントガラスに足の裏をおしつけた。体温と湿気でガラスが曇る。もちろん運転しながら。

「なんか靴下……臭いですよ、もおう……やめてくださいよ、足あげるのとエンジンとは関係ないやないですか……」

「細かいことを言うな、そんなことをゆうとると、しぜんと人間も細こうなるぞ」

「それより、この車いったい排気量は何CCですか?」

「青年よ、オマエのあの紺色のしみったれた車は何CCや」

「"しみったれた"は、余計なお世話です。ボクのは軽ですから、660CCです」

「ほな、まあざっとその8倍、5千CCや」

「ええっ、そんなにあるんですか、そしたらガソリンめっちゃ食うでしょ」

「青年よ、オマエのあの紺色の狭っ苦しい車は、燃費どれくらいや?」

「狭っ苦しいは余計なお世話です。まあ下道で、リッターあたり12キロゆうとこですかねえ」

「ほな、まあざっとその半分やな」
「えっ、リッター6ですか、やっぱ大きいもんなぁ……」

「あほちん、8倍ものエンジン積みながらガソリン代がたった2倍やったら、効率めっちゃええやないか。ほんまやったら8分の1やから、リッターあたり1•5キロやぞ、ということは、オマエのあのみじめったらしい車の4倍効率がええとゆうことやないかい」

「そんなもんですかねえ」

 若い社員は、ややこしい社長の言うことに生意気にも不信感を抱いていた。

 その時、こともあろうにこの不気味なオーラ全開の車の横を矢のような速度で抜いていったスポーツカー、まさに"走り抜けてく真っ赤なポルシェ"があった。

「はえ〜、社長、めっちゃあの車とばしてますね」

 助手席が驚きの声をあげる。

「世の中の怖さを知らん奴やな」と私がつぶやく。このクルマが覆面やったら、一発で免停や」

「社長、今の車、いったい何キロぐらい出てたでしょうね」

「そら300キロくらいやろ」

「そんなわけないでしょ、もう……ホンマに社長ときたら……」

 しばらくガラにもなく青年は物思いにふけっていた。そしてやがて唐突に、

「F1が300キロくらいなんでしょ」

「なんや青年、今までずっと悪い頭でそのことを考え続けてたのか?」

 私はあきれながらも相手になってあげた。

「300キロもあるかなぁ……曙でもそんなに重くないやろ」

「社長、もおう…相撲ともK1ともちゃいますって……重さやないですよ」

「そうか」

「時速300キロゆうたらいったいどんな世界なんやろ?……200キロくらいで走るサイドカーの横に乗ってる時みたいなスピード感かなぁ……」

「サイドカーって、おまえ古いなあ。だいたいあれはナチスが流行らせたんやろ、そんなややこしいふうにイメージするよりもっと頭を使えよ頭を」

「どんなふうにですか?」

「たとえばや、時速百キロで走るこの車の中で、熱いお湯を注いだカップヌードルが1分で出来上がる。それが時速300キロの世界やないか、どうや、わかったか」

「ええっ、それってなんか……なんかおかしくないですか」

「おかしいことあるかい、論理的には正しいやろが、これが味噌や」

「でも、実感がないなぁ。1分でカップ麺が出来ても、ボク、あんまり嬉しないしなぁ」

「オマエが嬉しいとか悔しいとかは全然関係ないねん。ところで青年、アキレスと亀の話を知ってるか」

「アキレスゆうたら運動靴のメーカーで、亀は置き薬」

「そういうと思った、情けない。よし特別にワシが教えたろ、昔々のことやった……」

「あっ、わかりました。ウサギと競争するやつでしょ」

「ウサギと亀でも因幡の白ウサギでもないわい、愚か者」

「はい、それならわかりません」

「昔々に、ゼノンというオッサンが考えたパラドックス……ゆうてもわからんやろな」

「はい、見事にわかりません」

「逆説や、まあその、たとえ話やな。とにかく、アキレスという足がめっちゃ速い兄ちゃんがおった。このアキレスと亀が競争をした。ええかよう聞けよ、アキレスは亀の10倍の早さで走れる。世の中競馬もゴルフも、ハンディキャップがないとおもしろないということで、アキレスは亀のスタート地点の1キロ後ろからスタートした。さてどうなる?」

「そんなん、すぐに亀に追いついて一気に抜き去るでしょ、そのアキレスの運動靴を履いた兄ちゃんが」

「そやけどよう考えろよ、アキレスが1キロ走って亀の最初のスタート地点に着いたとするわな、その時亀はアキレスの10分の1の速度で走ってるねんから、アキレスが走った1キロの10分の1、つまり100メートル先に居ることになるやろ」

「そりゃそうでしょ、それくらいはボクにもわかりますよ、だって世間では1キロは千メートルですからね。こう見えても一応は大学出てるんですよ」

「ほんまかいや青年、今初めて知ったけど大学出か、びっくり仰天や、すごいなきょうびの大学は……」

「それ、いったいどういうことですか」

「まあええ、深く考えるな、深い考えはオマエに似合わん。とにかくや、亀が進んだ100メートル先の地点に、次またアキレスが来た時、亀はどこに居る?」

「10メートル先でしょ」

「おかしいと思わんか、これやったらアキレスは永遠に亀に追いつかんことにならんか」

「そんなことないですよ。追いつきますよ簡単に、だって10メートルの次は1メートルでしょ、その次は1センチでしょ、それで次が1ミリ。もうここまで来たらこっちのもんですやん」

「オマエほんまに"学問"が出来んな。10割る3が永遠に割り切れん理屈を知らんな」

「そんなん、実際は1つの饅頭を3人で分けることができますやん」

「わかったわかった。ほんならそこは特別に大学出に譲ろう。そやけどアキレスは亀に追いついたとしても、そこから先、永遠に追い抜くことが出来ひんやろ、理屈の上ではなんぼ追いついても、その10分の1亀は前に進むんやで」

「ほんまや。そらたしかにおかしいは…なんか騙された気分……」

「やっと気付いたか四流大学出、大事なのはそこや、つまりや、理論的に完璧やと思っても、現実は必ずしもそうやないゆうことや。つまり3分の1の速度で3倍時間が早く流れても、実際は300キロの速度にはならんかもしれんということやな」

「わかりました社長、それって、いっぺん解凍したアイスクリームをもう一度凍らせても、もとの味には戻らんのと一緒ですよね」

「オマエ、なんで男のくせにそうすぐ主婦の視線に立つのかなぁ……まあそれとはかなり違うけど、まあその……雰囲気というか、論理性の湿度は似てるな……論理性の湿度ってな言葉、生まれて初めて使うたわ。まあそういうことや、青年……あれっ」

 ふと助手席を見ると、青年は目を閉じて船を漕いだ。わざとしばらくほったらかしにしていたら、20分ほどして突然勝手に目覚め、

「あっすいません。今一瞬ですけど記憶が飛びました」

「オマエの一瞬はいったい何分や」

「ええっと、ええっと……」

 よだれをぬぐいながら一生懸命計算して答えを探している助手席に向って私が投げ捨てた。

「永遠にとんどれ」。
 
 
 
 

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