私にとっての「いい歌」とは
【 いい歌 】
ミニコンサート付の講演のあと、今後どんな歌を創りたいのかと、実に難しい質問をされました。
ですからとりあえず、私はその場で、
「とにかくいい歌を創りたい」と答えました。
もちろん先方は、具体的にどんな歌がいい歌なのかと詰めてきたので、より詳しく答える必要がありました。
私が考える「いい歌」とは、まずは造りがいい歌です。その次に、嘘や逃げがない歌。そしてその次に、オリジナリティの濃厚な歌。
もちろんそれらが三位一体となって、絶妙の組み合わせになるようにまとめるセンスの良さが必要ですが、それはまず、しぜんと歌詞に表出します。
スタイルが古いとか新しいとかは、さほど気にしません。そもそも私は、同世代の人と比較しても、なぜか人間も感覚も古いので、いまだに七・五調の歌詞も案外好きで、要は年寄り臭いといえます。
けれどもただ古いだけではいけません。古いがために腐っていると、どうにもなりません。それならいっそのこと、新しいものの方がマシです。
腐っても鯛という慣用句は、明らかに間違っています。腐った鯛を食べればお腹を壊しますが、新鮮なサンマなら、刺身でも美味しくいただけます。
ただし、腐ったあとに発酵したものなら、今時の新しいものとは別の次元の価値があるように思えます。
もう少し、わかりやすいように言うと、
たとえば、吉牛(よしぎゅう)とかマクドとかは、別に不味くはないし、空腹ならそれなりに美味しいわけです。
今、ちまたで流行している音楽は、およそチェーン店の牛丼のように思えてしかたがありません。
みんなが知っている安心感もあるし、わかりやすい味だし、日常的に食べることができるし。そして何より極端な当たり外れがありません。
おそらく企業が企画段階で、ちゃんとした統計をとり、リサーチなんかを十分に行った結果に違いありません。
けれども、牛丼の肉を「あんなものは肉とは呼べない」などと言って、高級レストランで何万円もするステーキを食べるのとも、ちょっと違うわけです。
何万円もするステーキなら美味しいのは当然です。けれども本当はそれ以上に美味しいものがあるのです。
そもそも、もとから貧乏な家に育った人間が、何万円もするステーキを食べて、自腹ならなおさら、他人におごってもらったところで素直な気持ちで、心の底から美味しいなどと感じられるものでしょうか?
いろいろと複雑な邪念がよぎるのは、やはり貧乏性だからで、もしかしたら生まれつきのお金持ちなら、また別なのかもしれませんが……。
その「より美味しいもの」とは?……それはやはり、料理の技術がたとえ下手であっても、心をこめて、自分で完成させた料理なのです。
たとえ、少々味がおかしくても、馬鹿な子ほど可愛いという現象も期待できます。
つまり私が強調したいのは、「オリジナリティの美味しさ」なのです。
もちろん、その日の自分の気分や体調によって味覚は変わります。
そのかわり、その時の自分の興味や嗜好に焦点を合わせることができます。
ものすごく餃子が食べたい時に、湯豆腐を出されても、舌があまりピンとこないでしょう。
究極のオーダーメイドこそ、おそらく最高の贅沢だと私は信じています。
ですから、人に食べさせてお金儲けをする料理を、別に無理して私がつくる必要がないということになるのです。それは、料理のプロに任せておけばいいと。
この考えこそ、売れてる人に対する負け惜しみだと、真相の核心を指摘されればそれまでなのですが……。
本音を言うと私だって、バーンと印税が入ってくる歌を書きたいのです。JASRACからの振り込みで蔵が建つような歌を。それで生活が一気に楽になるのですから。
でもそれは、そのお金があれば、それでまた本当に今したいことが出来るからであって、それこそベンツやジェット機やマンションを買うためではないのです。
とにかく……最初から売ることを意識して創る行為は、どう自分をごまかしても、やっぱりスカッとは割り切れないのです。
それがグルっと回って、私にとっての「いい歌」ではなくなってしまうからです。
どこまで行っても、世間という摩訶不思議な社会との根本的な価値観の違いです。永遠に交わることのない平行線です。ですから、今のスタイルを確固として崩すことなく、奇跡的に売れてくれるのが一番ありがたいのですが、それこそ宝くじに当たるよりも難しいのです。
そしてもちろんそれは、決して目標などというものではありません。
私にとって、自分の歌が大勢の人に認められて、ヒットすること。
それは、単なるファンタジー……まさに、夢の中で見る夢なのです。