
エッセイ 穴ぼこ
もう10年ほどさかのぼった山口での話である。
複数のシンガー・ソング・ライターが集う音楽イベントのリハーサル会場に居た弟子から電話がはいった。
「今日一緒に出る予定の、東京から来たピアノ弾き語りの女の子の音合わせがさっき終わったんですけど……その子の歌や作品、特に"歌詞"が、きっと師匠の好みに合うと思います」
弟子は複雑な言い方をした。本来は上下の概念は無意味なのだが、その日初めて見て聴いた同業ライバルの演奏に対し、自分よりも上だと認めざるを得ないのであろう悔しさがありありと染み出ていた。
そもそもガンコで負けず嫌いで口が悪い私が、余程のことがない限り、特に"作詞"に対して他のクリエイターを素直に評価しないことを、弟子は長年の付き合いで知り尽くしている。
それなのに、あえて私にそう告げたからには、相当な確信があってのことだろうと、好奇心が深いところでそろりと腰をあげた。
それでもここ数年、期待して弾んではずれて墜落することがやたらと多かっただけに、念のため気持ちを半信半疑のニュートラルなポジションに据えておいた。他のことならいざ知らず、こういうことにだけは、やたらと私は小心者なのである。
しかし"保険"は無駄だった。本番で目にしたものは、希に見る見事な才能とパフォーマンスだったのだ。
何よりも根幹である作品力が素晴らしい。
パターン化された出来合いの模倣物ではなく、創り手の独特の個性が立体的に迫ってくる。
当然その奥には精神的な際どさが透けて見えるのだが、今はそんなことはどうでもいい。
自分の好みに限りなく沿う新たな創作物との出会いの幸運に、思わず左の拳を握りしめた。
「この世はまだまだ捨てたもんじゃない」。
終演後の会食で、彼女と私は初対面どうしだが、創作にまつわる話で新幹線のようにスムーズに加速して盛り上がった。互いに関西弁だったことも幸いした。会話に含有する細かいニュアンスの解釈の誤差が極端に減少するからだ。
相手もそう感じて気が緩んだのだろうか、話のとぎれ間に突然、脈絡もなく突拍子もない声をあげた。ちょうど私が割り箸でおでんの竹輪をつまんだ時である。
「そうやねん、それや!」
「何がや?」と問う私に向かって、
「あたしな、自分の中に、"穴ぼこちゃん"があるねん。最近それがわかってん。ふと気がついたら、あたしずっと穴ぼこちゃんの中におるねん」
シンガー・ソング・ライターの名は島崎智子。大阪は野田の生まれだが、音楽をするため今は東京に住んでいる。
それから、あれよあれよと季節が巡り、時は平成二十三年四月二十七日。島崎智子ニューリリースの見本盤が手元に届いた。
アルバムとしては五枚目になる。タイトルは《バカヤロー》、穏やかではない。
ときめきながら、CDをセットする。ボリュームを上げる。次々と作品が連なる。
挿入された13曲のすべてにハズレやアンコがない。アンコというのは、全体の曲数をカサアゲするための捨て歌のことである。
個々の曲はもちろん、アルバム全体としてのまとまりが絶品である。
「個にして全、全にして個」の理想を実現している。
最初に頭に浮かんだことばは「やられた」だった。久しぶりに文句なしの完敗を味わった。いや、味あわせていただいた。
負けたにもかかわらずあまりに嬉しいので、
「ワシもとうとう年をとって、焼きが回ったのかもしれないな」などと、にやけてみた。
11曲目、タイトルは《穴ぼこ》、覚えがある言葉だ。
歌詞を聞きながら、彼女と初めて会った夜の会話を思い出し、隣に弟子が居たにもかかわらず、ツルリンっと涙がこぼれた。
「不覚」と反省しかけたが、とっさに考えを改めた。
「そうだ、こういう歌を聞いて泣ける自分が素晴らしいではないか、こんな時こそ自分で自分を褒めてしんぜよう」と開き直ってみたのだ。
開き直っても中年を過ぎてからの涙はいっこうに止まらない。しかも何回聴き直しても同じところで泣いてしまうから始末におえない。
以下、歌詞抜粋。
気づいてしまった
私には穴がある
暗くて大きな
穴があいている
本気で愛せば
あなたもまわりも
暗闇に消えていく
そのさまに
疲れ果てた
誰も居ない
東京へ行きたい
誰も知らない
ところで泣きたい
誰もやさしくて
やさしい……
あたしはそれが
どうしょうもなく 怖い
歌詞の切っ先はぞっとするほど鋭利で、またピアノの音はやさしい顔をしたまま魂を根こそぎ揺さぶる。そして肉声が内耳をつき抜け、脳髄をかき回してえぐる。
「歌」というものの巨大さにあらためてひれ伏した。
ポロリと弟子がつぶやいた。
「上には上が居るものなのですね」
正気に戻ってあげ足をとる。
「上にはの《上》って、いったい誰やねん?」
「いや、そんなつもりでは……」
「まあええ、今日のところは許したる。確かにワシの負けや。そやけどこれでまた創作意欲がわいてきたわい。次は負けへんで」
こうして私は再び、ぼやけた日常という防空壕から勢いよく飛び出したのであった。