評論 成功する人 しない人
社会人になる前よりも、その後の方が、むしろよく話題として迫ってくるのが、
「成功する人としない人は、ここが違う!」
のような、啓蒙、セミナー系の案内です。
おそらく、まずは経営者の人、さらにサラリーマンも対象にしているようですが、そういう需要が社会に溢れているのは事実でしょう。
けれども私は、こういうものに、非常に違和感を持っています。
もっと正直に言うと、吐き気をもよおします。
好き勝手に決めた成功の定義を、他者に押しつけて、そのこと自体をビジネスにする魂胆が見え見えだからです。
これは、ギャンブルの予想屋より胡散臭い気がします。
そもそもいったい、「成功」って、何なのでしょうか?
そのような根本的なことを、あえて見つめなおす習慣は、人生で非常に重要です。
サラリーマンで、年収が一千万円を超えたら成功ですか?
自営業で、年商が一億円を超えたら成功ですか?
自分が経営する会社が、一部上場したら成功ですか?
プロ野球の選手になれたら成功ですか?
綺麗な奥さんをもらえたら成功ですか?
フェラーリで休日ランチを食べに行けば、成功ですか?
宝くじが当たれば成功ですか?
たしかに、その一つ一つを取り上げれば、成功と言えるかもしれません。
そのための努力も運も、決して馬鹿にすべきものではありません。さらに、どれをとっても、正直に羨ましく思えるのも人情です。
けれども、自分自身の成功の定義が定まらないままで、成功を求めて人生の選択をし続けることがいいことなのでしょうか?
それが非常に無意味であることに気付くべきだと思えてなりません。
成功を、金銭的成功と限定すれば、範囲や方向は明確になりますが、もしもそれ以外なら、本来の人間一人ひとり、成功の中身が異なってしかるべきではないでしょうか。
場合によっては、長い短いは別にして、自分の一生を全うすることが成功の人も要るはずです。
昔は、長生きすること、すなわち、成功と考えられた時代もありました。
まず、本当に大切なことは、あなたが、自分にとっての「成功」を見出すことだと私は思います。そのイメージを固めるのです。
成功は幸福によく似ていて、かなり幸運の手も借りて、大きな流れでは、快楽と同じ方角にあります。
努力する前の見極めが肝心で、しかも自分に対する、誠実で正直な態度が決め手です。
突き詰めればそれは、自分自身の内面に沈む壺の中の、タコのような不気味な生物との会話に行き着きます。
これを自己対話とも言います。時には自己対決も避けられません。
そのタコのような生物の、顔や吸盤や長い手足は、よく観察すると、あら懐かしい、ぜんぶ自分自身の一部なのです。
究極の捉え方は、生きることすなわち、自分との「コミュニケーション・デザイン」にほかなりません。
人から羨ましがられることを成功だと考えることほど、陳腐で愚かなことはないと、私は思います。
成功そのものに嫌気がさすケースでさえ、世の中の裏側をめくれば多々あります。
そのような人類・人間の多様性を認め、受け入れ、あらゆる自分の可能性を追求していく。
就職にせよ何にせよ、真っ先に金銭的条件を連想したりさせたりするのは、企業としても社会としても、よくないと思います。
私の場合は、お金儲けをまったく無視して、何かを創造することによってのみ、最高の幸福を得ることができるのだと、恥ずかしながら50歳を超えたあたりでようやく気付きました。
相当遠回りをしてしまったことになります。
でもはっきり言えることは、間違いなく、面白かったということです。
人生なんて、それが一番だと思います。