評論 権力と虚構
この世では様々な要素やタイミングがからみ、ふと本来ならば持つべきではないひとりの人間が、間違って権力を得ることがある。
ちなみに権力の質量は、その地位の高低にほぼ比例する。
それを自分の努力でつかみとったと自慢する者もいるが、その自慢が、皮肉にも自らの悪事を告白しているようなものにもなるから実に痛い。
量子物理学の世界では、この世のすべてが仮想現実であると言い切る学者が居るくらいだから、その中に起伏する権力などは、ほぼ幻だと考えても差し障りがない。おそらく虚構の上に輝く虚像なのだ。
ここでいうところの「虚」に反する言葉は「実」ではなく「人」である。
もっというと「心」。
「心」を、抽象的概念だとバカにしてはいけない。「心」は、すべての哲学・宗教を超えた宇宙に内在する量子コンピュータの正体なのだ。
人は権力を手に入れ、しばらくその状態が続き、さらにその環境に慣れてくると、なぜか必ず狂い始める。
スケールの小さなところにしか存在しない"本物の「心」"が見えなくなるからである。
そしてその最もわかりやすい兆候の一つが「ウソ」なのだ。
「ウソ」は、漢字で「嘘」。虚構や虚像の「虚」の親戚である。
横に「口」がつくかどうか……ここにも漢字の意味深長な趣が潜む。
権力に酔っぱらってボケると、「ウソ」の感覚と目測が鈍ってくる。これも「心」を軽視することから繋がっている。
具体的には「ウソ」の罪悪感や、バレた時の怖さを忘れ、さらに自分の権力下にある「ウソ」は、なんでもかんでも、強引にまかり通るという過信をしてしまうのだ。
事件が発覚した時、カルト宗教団体と構造が同じになる。
もちろんこの場合の「事件」とは、自分の影響力が及ぶ外の世界にコトがはみ出た場合を言う。
また家庭内暴力や学校内のイジメ、さらに会社のパワハラ、学校のアカハラ、それらすべてにこの「事件の定義」は当てはまる。
ボケて狂った権力者は、自分の権力の外側にある、他者や警察や裁判所、さらに刑務所などが存在することをすっかり忘れている。
以前問題になった、日大アメフト部の監督は、まさにそれだったのだと思う。
権力を持った人間が調子に乗って自信過剰になって狂ったまま暴走した。
本当は、ものすごくスケールが小さい臆病な人間なのであろう。
およそその程度の人間が、不相応な権力を持つ場合は、普通ならその影に何らかの具体的な力、すなわち暴力を得意とする者が存在し、後ろ盾として暗躍する。
これは残念ながら世の中の、非常によくある公式の一つで、堅気のトップと暴力団との隙間にトルクコンバータのような半グレの堅気が現れるのは決して珍しいことではない。
日大アメフト部の監督は、権力に酔っ払ってボケて、独裁の暴挙が暴走し、勢い余ってそれが外の世界にまではみ出てしまった。
当然そうなれば、今度は外の世界の常識の尺度で叩かれまくることになる。
当たり前だが、権力に酔っ払ってボケた者からすれば、この現象は極めて予想外且つ想定外なことなのである。
そこから抜け出すために、さらなる力で揉み消そうとしても、関東の日大から関西の関学までは、遠過ぎてさすがに、裏の力が及ばない。
それでも本人はボケたままであるから、状況を正しく理解せず、自分のウソがいまだ通用すると勘違いし続ける。
誰が考えても誤魔化しきれないことであるのに、きっとなんとかなると、今までの自分の、本来根拠が乏しい力を信じて、その運命の流れに安易に頼るわけである。
真相を隠しにくいネット社会の現実にも気付いていないから、部員に箝口令を敷いたりして、とんでもない時代錯誤の悪あがきをする。
そんな人物が態度を変えるのは、時間の経過に伴って、自分が敵わないさらなる権力から圧力が加わった時だけである。
それは内面から生じた圧力ではないから、本来の人間として犯した過ちに対する反省などはなく、ただ不幸な流れ……たまたま運が悪かったのだ……または、誰か他者のせいにしてしまう。
もちろんこの場合は、他者も自分も騙すので事態は複雑にこじれてしまう。
当初は謝罪そのものもなかなか受け入れないのだが、最後は水戸黄門の印籠を見て、いやいや形だけは頭を下げることに同意せざるをえなくなる。もちろん本心ではないから伝わらない。
いずれにせよそのように、自らを主人公にして、ひとりの人間の地位や名誉や権力が、実は虚構の上に立つ虚像であったことを、砂山が崩れ落ちるように見事に世間に証明してしまうことになるのである。
残念ながら今の情報化社会で、ここまでのダメージを社会から受ければ、その人間の社会的評価はどうあがいても生涯地に落ちたまま固着する。
今更謝罪をしてもなんの効力もない。時すでに遅しとはまさにこのことを言う。
日大は、アメフト部監督の辞意を表明したそうだが、数日前までは、9月までの自粛を協会に申し入れていた。
それがまさに状況判断の甘さと反省不足を顕著に物語っている。
事件後数日のうちに、まわりから散々常識を教えられ、理解も納得もせぬままだったが、さらに上の圧力によって詰め腹を斬らされた結果が、この監督辞任発言であろう。
信じられないことに大学の要職の辞職には触れていないようである。
今回の件でどれほど日大のイメージが悪くなったか、多くの日大OBがどれほど傷ついたことか、さらに日大には危機管理学部なるものがあるにもかかわらず、それが自らに全く機能しなかった喜劇的失策をどう考えるのか……日大のトップはアメフト部を廃部にするよりも、危機管理学部の廃止を急ぐべきであろう。
今回の件は、良い悪いは別にして、昭和以前の日本人なら生き恥をさらすよりも切腹を選んでも不思議ではないほどのケースである。
知れば知る程、指導者としても、男としても、社会人としても、経営者としても、人間としても、実に恥ずかしい行為に思える。
本人だけが気付いていないのが、あまりに痛くて哀れである。
今の時代は、ヤクザの指詰めが減ったように、切腹の意味も変わった。
命や加害者の人権の捉え方もより人間的に向上した。
そのかわり情報は隠しきれず必ず漏れ、溢れ、流れ、そのうえ死後でも容赦なくネットに半永久的に残り続ける。
つまりこの監督の社会的人生は、実質的には終了してしまっているといえる。残酷だがそれが今という時代の定めでもあるのだ。
日大としてのおとしまえは、大学からの解雇と追放、そして、それに従ったアメフト部コーチ陣の一掃しかない。
それをしなければ、大学のトップである理事長が、何か監督に弱みを握られていると疑われても仕方がない。
さらに、学費をとって教える資格が無いことが判明した危機管理学部の廃部が必須であろう。
それらが行われれば、アメフト部の廃部は必要ないと私は考える。罪を憎んで人を憎まずである。
実際に悪質極まりない反則を犯した選手には、なんらかの形で、スジが通るように復帰のチャンスを与えるべきである。
今回の件で私が何を言いたいのか。
それは、
「権力をなめてかかるといけない」ということである。
もちろん、持っている人間も持たれる人間も。
権力は人を変えるのである。
権力と人との関係は、金銭同様、政治や宗教も含めて、まだまだ人類の重要な研究課題なのである。
そのことを、社会も個人も、肝に銘じておかねばならない。 了