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評論 平和と戦争
私の経験上、平和色の濃ゆい、いわゆるいい人は、戦争映画を嫌う傾向にあるように思える。
「怖い」「えぐい」「グロい」「血とかが苦手」というのも、大きな理由のようだ。
それはそれで、昆虫が苦手で触れない人と同様に、理解までは無理でも、ある程度までは想像できる。
けれども、数多い映画の中でも、戦争映画は、人類にとって特に重要な意味を持つと、私は考えている。
映画であるから、すべてが事実であるとは限らないし、むしろそこはかなりあやしいとも言える。偏りも誘導も、ストーリーや映像があれば、より恣意的に扱えるからだ。
何よりも重要なことは、戦争の中では、正義は一つではないことである。
ただし、ほとんどの戦争映画には、いかに戦争が愚かで、悲惨で、非人間的かというメッセージが、深くこめられている。
私は、ここを拾い上げたい。
また同時に、平和がいかに貴重で、世界はきれいごとでは済まされない多くの危険を抱き続けて居るということを、再確認させてくれる。
まして、日本以外で映画を製作する多くの国は、現在に至るまで明確な軍隊を保有しているわけで、特に米国に至っては、これまでも散々好き放題に戦争を行い、他国に攻め入り、また自国の兵隊も含め大量の生命を死に至らしめている。
戦争終結後も、帰還兵の精神状態など様々な根深い問題をかかえていることも、その多くは映画が伝えてきた事実であろう。
おそらくある意味、アメリカ人は、日本に比べて、より平和を語るための戦争に対するストレートな思いを有しているのだと思う。
つまり、戦争を直視することに慣れている可能性が高い。
私は、それが国際社会……先進国と言われる豊かな国々の普通の姿だと思えるのである。
どう考えても日本は異常だとしか言いようがない。
明らかにハーグ条約違反である原爆を落とされてから75年。決定的な敗戦を経た日から、真の自由を奪われたままそれを当然のように受け入れ、政治家は責任のがれの言い訳だけを口にしてきた。
生馬の目を抜く血生臭い国際社会の中で、極めて特殊な形で得た"自由のようなもの"に包まれて平和的に暮らしてきた日本人が、とにかく複雑にねじれて、戦争をとらえているのは仕方のないことであろう。
我々が享受している平和は、自ら血を流して手に入れた平和とは成分が異なる。
そういうことが、頭に長くちらついているからかもしれないが、なぜか海外の戦争映画のレベルの高さばかりが目立つように思える。
日本映画では、戦闘シーンを描写せずに戦争の影や悲しみを表現した名作は多々あるのだが……。
30億円をかけた超大作とうたわれた、「男たちの大和」を観終えたときのガッカリ感が、いまだに私の偏見を助長しているのかもしれない。
ハリウッドなら別だが、30 億円をかけたということを前面に出す時点で、邦画としてはすでに駄作だと公言しているということに、儲けにつながる地位や名声に対して極端に狡猾なこの国の業界が、なぜ気づかぬのだろう?
やはり、ここ一番で本質を見抜く力が、伝統的に欠落しているのかもしれない。
戦争映画をつくる、創り手側の"根本"の精神が"根本的"に違うように思えるのは、私だけなのだろうか?
「ヒューリー」という、2014年に封切られた映画を観た。
ナチスと血みどろの戦いをする連合軍側の戦車部隊の話である。
「男たちの大和」の、数十倍よくできている。まったくもって、比較にならない。ただただ日本人として恥ずかしい。
その映画の中で語られる、重いひとこと。
それは我々日本人に最も欠けている真実である。
「 理想は平和だが、歴史は残酷だ 」。