評論 経営者の抽象力
経営者というものは、どうしても具象に縛られる定めにある。
常に業績や資金繰りや株価や労務や人事や、様々な問題を抱えていて、それらはもれなく、具体的な内容であるからだ。
だから会議で、部下に対し、
「そんな抽象的なことではなく、具体的な意見を述べろ!」
などと叱って、机を叩く。
そういうトップに限って、もしも何か画期的なアイデアが出されると、
「それで我が社は、いったいいくら儲かるんだ? 具体的な金額を言え!」
などと、口にする。
そしてついでに、
「もしも失敗したら、責任はとれるんだろうな?」などと、脅す。
笑ってしまうが、これが我が国の、多くの会社の現状であろう。
そして、これが経営者のあるべき姿としても、長年認識されているらしい。
つまり経営者は、自らの責務を全うするためには、足下を見なければならないのだ。知らんけど……。
足下を見るためには、しぜんと顔がうつむく。
そうすると、遠くにある目標が見えないし、見えたとしても、そこに到達するのに、確実にブレながら……迷走することになる。
嘘だと思うなら、グラウンドのライン引きをやればすぐにわかる。
サッカーでも野球でも、グラウンドに白線を引く作業が必須である。
たとえば、野球のホームペースから、ライト方向に直線を引く時、塗料である石灰の粉が入った箱をコロコロと転がして行くのだが、足下を見て転がすと、確実に線が酔っ払ったように歪んでしまう。
綺麗な白線を引くコツは、遠くの目標物に視線をあわせて歩くことなのだ。
先程の野球の例なら、ホームベースから、ライトのポールを目指して歩くと、綺麗な直線が引けるのである。
経営者には、それができない。
それでも、実際には足下は極めて重要で、そこがぐらつくと目標うんぬんではなく、その場でドブ板が割れたりして、奈落の底に落ちることもある。
だから多くの経営者は足下を見ざるを得ないのだが、同時に、「遠くを見る目も必要だ」ということを、常に肝に銘じておかねばならない。
その遠くとは、たとえばビジョンであるが、これが具象ではあまり意味がない。
昔、テレビのCMでどこかの薬局が、全国展開をするのに、たぶん社長だと思うのだが、
「目標、427店!」と、高らかに宣していた。
実はその会社の創業当時、日本には42700件の薬局があった。
社長は、その1%である 427店を目標に据え、社内だけでなく、日本中にそのメッセージを伝えたのである。しかも、自らが象に乗って叫んだりした。
ちなみにこの427店の目標は1980年に達成され、次の目標は 1327店となった。
これが、遠くの具体的目標に対して猛烈に突き進んだ例だが、高度成長期時代の価値観がケツを持っており、おそらく今の時代や私の趣味にはあわない。
企業や経営者が、はるか先に置く目標は、ホームベースから見て、一塁ベースではない。
ヒットを打ったランナーが一塁ベースをまわり、次は二塁を狙う。そして最後はホームベースに戻ってくる。
それは一般の社員が考えることであり、経営者が見つめるのは、繰り返しになるが、ライトのポールの先、つまりホームランでなければならないのだ。
経営者は、選手でも監督でもないのだ。
ヒットは具象だが、ホームランは、おそらく抽象なのだと思う。
昔、私がHONDAに居た頃、たぶん本社でブームになったのだろうが、やたらと、「ビジョン」という言葉が流行ったことがある。
当時……たぶん現在もだろうが……本田技研の本社から、全国の子会社、販売店に出向された、ホントにどうしようもない、雇われ社長や取締役が、猫も杓子も、「ビジョン、ビジョン」と、騒ぎ始めた時期があった。
「ビジョン」とは、「vision」と書き、その意味は、 理想像や未来像。または、展望や見通しのことを言う。
そしてさらに、まぼろしや幻影という、あやふやな要素を孕む言葉であることが重要なのである。
それも知らずに、
「これからは、ビジョンが大切なんだよ。
社員全員が、もっと具体的なビジョンを描くんだよ」
と、得意げにいう、浜松の方言が混じった関東のイントネーションに辟易とした。
たまりかねた私は、盲目の琵琶法師が、琵琶を奏でて歌う絵を描き、その上に、
「ビジョン・レノンの枇杷の音……ワシは目の前のことも、見えんからのう……♪あ〜ビジョン、ビジョン」
と書いて掲示板に張ったら、重大な幹部批判だと言って、めちゃくちゃ叱られた。
退社を覚悟した上での確信犯だったから仕方ない。
社長が怒り狂っていて、近く直々に、私に処分が下されるという話が伝わってきたが、そのタイミングで奇跡が起きた。
まったく私とは関係がない理由で、突然、社長が更迭……解任されたのである。
話を戻すが、この国の多くの経営者が、抽象力を持たない。抽象に触れる機会が極めて少ない。
ビジョンというものは、企業にとっても非常に重要で、優れたビジョンを描くためには、抽象力が必要なのである。
ところが、これまた繰り返すが、経営者はなかなか抽象力をつけにくいのだ。
ゴルフや料亭や銀座のバーや会社の宴会やカラオケでは、決して抽象力は身につかないのである。
抽象とは、たとえば、海を見て懐かしく思う心の動きであったり、星を眺めたり、月を見上げたり、小鳥のさえずりに耳をかたむけたり……そういうところに、普通に存在している。
間違いなく、子供の時は誰でも、身体中に抽象力が充満していたはずだ。
都会は、分刻みで電車が来る。
これは見事な具象である。
本来、コンクリートが埋め尽くした都会は、具象の塊りと言っても過言ではない。
四六時中その中にいて、住んで、息をしていると、なかなか抽象力が取り戻せないのは、当然と言えば当然である。
実は、簡単に抽象力を得る方法がある。
最も手っ取り早いのが、薬物使用だ。
覚醒剤……ヘロインなんかをやると、一発で、具象から解き放たれる。……らしい。
しかしこれはさすがに、リスクが高すぎて、オススメできない。
何より、明確な違法行為であるから、逮捕・勾留、さらに懲役をうたれる可能性もある。
アルコールも、依存性や社会性を鑑みると、場合によると、薬物よりリスクが高い部分もある。
だからこれもオススメできない。第一、私は酒が飲めない。
そこで登場するのが音楽である。
音楽でも、テレビやラジオやCDやカラオケは、不可。
なぜなら、それらはその時点で、具象の色合いが濃ゆいからだ。
生演奏、いわゆる、ライブを聴くのが、最善の方法である。
メジャーなミュージシャンは、これまた経済の流れに沿っているので、具象色が濃ゆい。
よって、あまり世間では知られていないが、コツコツと自分を表現し続けているミュージシャンを探すのだ。
自分の感性のアンテナを張り巡らせて。
今の時代、プレイガイドジャーナルを買わなくても、インターネットという強い味方がいる。
その広い海原で、商業的成功とは無関係に、純度の高い、イミテーションではない真珠を、根気よく探すのである。
ライブなんて、地方都市なら、ミュージックチャージは、だいたいが2,000円とか3,000円で、経営者の金銭感覚からすればタバコ銭ほどのはずだし、何より領収書も出る。おそらく飲食費か研究費で落とせるはずだ。
最後に重要なことを述べる。
実は、ここだけの話だが、
音楽は、この社会で唯一、
合法化さらた麻薬なのである。 了
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