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エッセイ 笑いと差別
2018年の春、あの頃は、とにかく面白いラジオ番組を創造しようと、必死になって取り組んでいた。
そのためには、まず、何をもって面白いとするのか? その根本から見直さなければならなかった。
決して、ギャグだけが面白いわけではないのだから。
実際にテレビやラジオで、お笑い芸人が手を叩いて大笑いしている時は、見たり聞いたりしている側からは、まったく面白くない。クスリともしないことがほとんどである。
テレビのディレクターやタレントは、視聴者が出演者に共感してつられて笑うほどに、レベルが低い人間だと思っているのだろうか。
これはひとえに、笑いの本質を提供側が理解していないからである。
笑いには、落差が必要だと思う。
視点、価値観、環境、常識、経験、その他諸々…。
提供側つまり出演者と、リスナーが、一緒になるということは、落差がなくなるということを意味する。
落差のないところに、なかなかエネルギーは生じない。
笑いを追求していくと、その「差」が認識されたり強調されたりする故に、なんらかの差別につながっていくことは否めない。
差別というと、ものすごく悪い意味しか浮かばないが、今私は、そういう、人権上の意味で言っているわけではない。
かと言って、区別 とも、違う。
だから、笑いは難しいのである。
本来、ラジオ制作にもっと集中したいのだが、すべてはウイルスがぶち壊してしまった。
とりあえず今できることは、原稿整理である。
膨大な量の文章を片っ端から整理して、読み直しながら、本人である私が、何度も声に出して、笑ってしまうことがある。
それは、特に、父親との介護漫才の記録。
「あったあった……こんなこと。やっぱり、治司(父親)は最高にオモロイ!」
ここにも、おもしろさの秘密が、ものすごく大量に埋まっている。
差別という言葉の、悪い部分を蒸発・成仏させるのは、おそらく愛情なのだと思う。
もちろん、本物の愛情でなくてはならないのだが。