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エッセイ 秘話 山口でうまれた歌

 井波陽子さんという関西のシンガー・ソング・ライターが居る。

 彼女は素晴らしい歌を書きピアノを奏でて歌うが、それと同じくらいに魅力的な文章を書く。

 私は彼女のホームページの《作文》という欄を初めて読んだ時の感動がいまだに忘れられない。
 
 今の時代、多くの人がブログと称して記すように、彼女もまた日々の出来事やそこで感じたことを自らの言葉で綴っていた。

 しかしこれほどまでに文字から書き手が透けて見えるのは、驚きを越えむしろ脅威だった。

 とにかくその《作文》からは、作者の「よい子」が直接伝わってくる。

「よい子」という言い方は、時折軽い侮蔑を意味することもある。創作に携わる人間は、どうしても厳しさを追求する方向に進みがちなので、自分に内在する「よい子」を遠ざける傾向にあるのだ。

 もちろん私も多分にその癖がある。

 私の場合はあり過ぎて厄介である。けれども井波陽子さんのような、はるか上空まで昇華した「よい子」を突きつけられると、もはや万歳するしかない。
 もちろんこの万歳は、万歳三唱の万歳ではなく、無条件降伏や才能の自己破産を意味する。

 彼女の《お父さんありがとう》と題された《作文》の数回あとで、不幸にもそのお父さんが亡くなってしまう。お父さんが倒れた日の描写もさることながら、それからだいぶ時を経て発表された一文は、まさしく珠玉の極みだった。
 
 ある日の夕方、駅から出て帰路につく大勢のサラリーマンを見ながら、彼女はそこに在りし日の父の姿を偲ぶのだった。

 そこで『人は生きているだけで美しいのだ』と、転迷開悟した。

 そうら見てみろ、今こうしてそのことを書きながらも私の目が潤んでいる。

 私はこのことばを頂いた、頂戴した、盗んだと言われても仕方がない。

 それよりも正確には、彼女にものすごく大切な真実を教えてもらったのだった。

 私は残された自分の人生の中枢にこの言葉をしかと据えることにした。
 そしてそれをテーマにした歌を創ろうと即決した。

 そういう事情で《山口でうまれた歌》の記念すべき最初の歌は、「人は生きているだけで美しい」という歌詞を埋め込んだ《この町で》でなければならなかったのだ。
 
 後日談がある。

 実はとても気がかりなことがあった。
 
 それは、井波陽子さんのホームページの《作文》が、ある日をさかいにお父さんがまだ存命だった頃にさかのぼって終わり、それ以降が削除されて読めなくなってしまったからだ。

 もしかすれば彼女の身の上に何か衝撃的な変化でもあったのではなかろうかと心配したのだ。
 まさか一度亡くなったお父さんがキリストのように蘇ったとは考えがたい。

 それより、私が無断で一部拝借したのが原因ではないだろうかと、深読みの詮索をした。

 そうこうしているうちに、九月の歌《闇夜の釦》のレコーディングのため、とうの本人が山口に来てくれることが決まった。

 私は普段めったにしない洗車という儀式を柄にもなく行い、掃除機で車内のゴミも吸った。

 ついでに使ったことがない灰皿の中のほこりもはらった。

 うがい手水で身を洗い、支度をなして新山口駅に早めに行って、改札で出迎え、そのまま拉致して予約していた格安和食料亭の個室に連れ込み、いの一番に不安を直接確かめた。

 すると思いもせぬ答えが、柔らかい大阪弁で、あっけらかんと帰ってきたのだ。

「え〜そうなんですか〜、私最近次のアルバムのレコーディングや何やらで、やたらと忙しゅうて、自分のホームページぜんぜん見れてへんから、まるで気付かんかったです。

 そう言えばホームページのアドレス引越してから、今まで読めたとこが読めんようになったり、ほかにもいろいろ不具合があるいうことは、いろんな人から聞いてましたけど……」

 ずっと引きずっていた心配事が解決してホッとしたら、途端に体中の力が抜けてしまった。

 実は井波陽子さんに会えるという緊張と興奮で、前の晩明け方近くまで寝付けなかったのだった。
 
 その日レコーディングした《闇夜の釦》は、

「月夜の晩に拾ったボタンは、どうしてそれが捨てられようか」という、中原中也の《月夜の浜辺》をモチーフにしている。

 私の《闇夜の釦》では、

「掛け違った釦を、捨てたいけれども拾えない」と、二回転半ひねりで着地する。

 自己評価は、8.69 上出来だがメダルには届かない。 

 録音スタジオで彼女の透き通った声が何のストレスもなく上に伸びる。

 譜面を見ただけで見事にピッチが合う。

 普段聞き慣れている私の弟子との差が歴然としすぎて、今までの音程における苦労が何だか馬鹿らしく思えてきた。

 とにかくこの《闇夜の釦》という歌は、井波陽子というアーティストに歌ってもらうために世に出て来たのだと思えて仕方がなく、一人それなりに悦に入っていたのだが、録音作業がすべて終わった後であることに気づいた。

 彼女はすでに、中也の《月夜の浜辺》に自分で曲をつけて歌っていたのだ。
 しかもその曲は、私の大のお気に入りのアルバム《オン•ザ・ロード クオレ》にはいっているではないか。

 わざわざ私が無理をして創らなくても、最初からそれを歌ってもらえば、よりよかったのかもしれない。
 
 さてこの時の録音風景は《闇夜の釦》の項でゆっくりお話することにして、今は出し惜しみをしておく。

 こういう時、浪曲の広沢虎造ならこうしめくくる。

「またのご縁とおあずかり」。

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