エッセイ スカタン
優れた喜劇は、悲劇の上に成り立つ。
関西人はそのことを、生まれつきよく身に染みて知っているのかもしれない。
関西に「スカタン」ということばがある。
もともとは京言葉で、当てがはずれたり騙されたりすることを意味する。
「お金を貸してくれはるとゆうから、朝も早うから出かけて行ったのに『スカタン』くわされたわ」
などと、使うことがある。
この場合は、無駄足だった。という意味である。
同時に『スカタン』には、失敗した人や間抜けな人に対する、バカにした呼称としての意味がある。
「こいつにタマゴ買うてきてと頼んで、領収書もろてこい言うたら、領収書だけ持って来て肝心のタマゴ忘れてきよってん。
ほんまにこいつは『スカタン』なやっちゃで」
という感じである。
京言葉ではない関西弁では、比較的後者の使い方をするのだが、実はこの『スカタン』には微妙なニュアンスが含まれている。
ちょっと説明に苦労するのだが、それは、最終的には憎めないという、なんとも言えない、愛情にも似た好感なのである。
たとえばクラスメイトの一人が、電車の中にカバンを忘れたお年寄りを追いかけて、自分が降りる必要がない駅にわざわざ降りて、お年寄りにカバン渡してから、自分のカバンを電車の中に忘れたことに気付いたようなケースで、
「 あいつ、ほんまに『スカタン』やで……」などと使われる。
つまり不器用で、要領が悪い。いつも損をする役回り。でも根っこはまるで悪気がなくて、人間的にいい奴。どこか滑稽で憎めない。
さてヤクザ、チンピラ、極道、などと言われる人は、幼い頃からまわりや一般社会との折り合いが下手で、生き方がとても不器用だった人がほとんどだと言われている。
個性が強すぎ社会的に適合しにくいために、しょっちゅう揉め事や迷惑をまわりに及ぼす。
特にそれが集団になると、到底シャレでは済まなくなる。
そういうところから、20年ちょっと前に、暴対法という法律ができた。
正しくは「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」というが、特定の人間に基本的人権すら認めない、かなり強引な法律であり、その頃から社会の浄化政策が、本質を迂回して暴走したように思える。
まるで食あたりの危険性を排除するために、何ヶ月放置しても腐らないチーズバーガーをつくるのと、そっくりである。
私は私なりの苦い経験をもとに、ヤクザを正当化するつもりは小指の先ほどもない。
よってヤクザを必要悪だと言って、擁護するつもりもさらさらない。
しかし、論理や倫理や正論や理想や正義などでは、どうしても語り尽くせない。排除しきれない微妙なものが、人間界という自然界には、確かに存在するのである。
そのようなものすごく抽象性の高い真実を、関西人は昔からずっと、普通に持ち続けてきたのだと思うのである。
吉本新喜劇に出てくるヤクザは、もちろん喜劇であるから当然かもしれないが、もれなく『スカタン』である。
脅した相手に同情したり、逆に金を与えたり、まともな悪になりきれなかったり、間が抜けて失敗したりを繰り返す。
勧善懲悪の二元論では決してない。
そもそも善と悪の二元論ほど危ないものはないのだ。
お上や世間やマスコミは、最近になってやたらと、芸能人やスポーツ選手などと、暴力団との関わりにヒステリックになるようになった。
同じように、役人や政治家が東電と関わることについても大騒ぎするのなら、まだ理解ができる。
けれども現実はまったくそうではない。
これは、劣等生がイジメをしたら退学させるが、優等生が同じことをしてもとがめられない。という構図によく似ている。
そのような社会的狡さが、私は許せない。
余談であるが、神戸に本拠を置く日本最大の暴力団である山口組の三代目は、かつて一日警察署長を務めたこともあるのだ。
聖人君子を装う良い子たちが仕切る世の中は、都合が悪い歴史を見事に闇に葬ってしまう。
そういうところが、浄化政策の落とし穴であり、これを思想として扱うと、強烈に危険性を増す。
とにかく、ヤクザはどこかに『スカタン』の粒子が含有されているのだが、東電のどこをどう切っても、『スカタン』のかけらも見当たらない。
常に自分勝手で小狡く冷徹で、自らは決して泥をかぶったり損をしようとはしない。
普通に考えれば、地元や国民をこんなにも裏切って、国を傾け税金を使い、且つ一切の反省もせずにのうのうと高給をとり続けて、値上げまでする東電が、いまだに一流企業として存在すること自体が、異常としか思えない。
たとえ司法や行政が何もしなくても、社内において遠の昔に上層部を相手に、怒れる社員たちによるクーデターが起きていてもおかしくないはずである。
それが、起きない。
おそらくこれから先もずっと……。
その一番の理由は、まさしく、東電の社内に、損得勘定ぬきに、尊い精神を貫く、『スカタン』な人間が一人も居ないからであろう。
喜劇が生まれることがない福島の悲劇は、おそらくこれから先、何百年も続くに違いない。
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