お父さん

我が家には、父親というものが存在しなかった。生まれた時からずっと。幼少の頃なら誰しも、一家に一人必ずあると思っていたものだ。姿を見たこともなければ声も聞いたことがない。

それなのに。

母は毎日、5人分の食事を用意している。朝も昼も夜も。まるで、誰かもう1人がそこにいるかのように。兄も姉も、それを気に止めることも無く平然と箸を進める。兄はよく休日に、見えない誰かとキャッチボールをしていた。壁に跳ね返るわけでもなく、ボールは真っ直ぐに返って来る。私と姉は共同部屋だが、突然姉が誰かに返事をすることが多々あった。おかしかった。

ある日の夕食はカレーだった。母はいつもの様に、私と姉と兄と、そして誰もいないはずのテーブルの前に皿を並べた。私以外の3人は、何も気にせず食べ始めた。小学生ながら私はその異常さを感じ取っていた。3人を訝しげに見ながらスプーンを取った。

ふと、誰も座っていない席に目を向けた。カレーは美味しそうに湯気をたたせていた。しかし、次の瞬間目を見張った。

皿の上にたっぷりと盛られていたはずのカレーが少し減っていた。信じられなかった。思わず凝視した。カレーは減らなかった。
なんだ、気のせいか。安堵して、自分の食事に戻った。スプーンですくって、口に運ぼうとする。なんとなく空の席に視線を向けると、さっきよりもまた量が減っていた。減る瞬間は見ることが出来ない。結果だけがそこに残った。
信じられなかった。思わずすくったカレーをぼたぼたとこぼしてしまった。

「ミカ、なにしてんの。早く食べなさい。」

不審に思われたのか、姉に諭された。気を紛らわせようと、目を逸らし、食べるペースを早めた。
次に目を向けたとき、皿の上のそれは綺麗さっぱり無くなっていた。

私以外の3人は、何かを隠していた。家族の中で私だけがそれを知らなくて、仲間はずれにされていた。小学生はそういうのに敏感なのだ。なんだか悔しくなった。
私は意を決して、母に尋ねた。

「お母さん、どうしてお父さんがいないのに、ごはん出したりするの?」

一瞬、母が硬直した。蔑んだような目で私を見た気がした。だがその後すぐ、いつもの優しい笑顔になった。なぜか私は安心した。

その次の日だった。母も兄も姉も、全員いなくなった。それなのに、朝起きると5人分の朝食が並んでおり、誰もいないこと以外は全ていつもどおりの日常だった。私は必死でみんなを探した。どこにもいなかった。

玄関に行くと、私の真っ赤なランドセルが置いてあった。学校に行く前、母がいつも用意してくれていたのだ。私はランドセルを抱えて泣きじゃくった。