カノッサ

『カノッサ』

息が凍るほど寒い日、東京では珍しく雪がちらついていた。講義を終え、今日は真っ直ぐ帰宅しようとしたはずだった。正門の傍らに、見知った顔立ち、体つき。日常の中に突如飛び込んで来た異物に、私はひどく狼狽えた。

なんで、なんであんたがここに。

華奢で洗練された佇まいの彼女は、私を見るなり神妙な面持ちでこちらを向いた。

「謝りたい事があって来たの…」

消え入りそうな声でそう告げた彼女は、あの頃とは別人だった。

自宅までの道中で私と彼女はほとんど会話をしなかった。私たちはもう以前のように、他愛無い会話など出来なくなっていた。傘のおかげで一定の距離が保たれた。

彼女を家に招き入れるのは約5年ぶりくらいのはずだった。昔はよくお互いの家を行き来していたっけ。そんな記憶も、私にとっては遥か遠いものになって霞んでしまっていた。

「なに? 謝りたい事って。」

彼女は唇を擦り合わせた。言いづらいことがあるときの、彼女の癖だ。

「…史織とのことなんだけど、聞いてくれる?」

私は口を真一文字に結んで射抜くような目で彼女を見た。

「今更何を。」

「暦のことも史織のことも傷つけて、今すごく後悔しているの。自分でも分からない、なんであんな酷いことをしたのか…」

私は高校時代のある事件を思い出した。

ーーーーー

私と史織は幼稚園からの幼なじみだった。史織は大人しいけれど、笑顔が可愛くて誰からも好かれるような存在だった。それに対し、自己主張が出来なくて感情を表に出すのが苦手だった私は史織のおまけみたいな扱いで、いつも後ろをついて歩いていた。金魚の糞と例えるのも烏滸がましいくらいだ。

中学2年の時、私たちのクラスに彼女が転入してきた。

「鹿島リコです。よろしくお願いします。」

信じられないくらい美人だな、というのがリコに対する第一印象だった。はっきりとした目鼻立ちで、特に化粧をしている訳でもないのに華やかな印象。中2とは思えないほど大人びていて、凛とした雰囲気を纏っていた。

「よろしくね。」

たまたま席が近かったので、私たちはよく話すようになった。気が付けば私の傍に2人がいる事が当たり前になっていた。

中学を卒業して、3人とも同じ高校に上がった。残念ながら三者三様に頭の出来が悪く、地元でもあまり人気の無い低レベル校に進学した。

リコが狂い始めたのは、入学してすぐのことだった。史織は高校生になってからも変わらぬ愛されっぷりで、リコは見た目の通りスクールカースト上位者になった。世渡りの上手い2人とは対照的に、平凡な外見で性格が根暗な私は必然的に邪魔者な訳で、リコが明らかに私を除け者にするようになった。

入学して2ヶ月頃の事だった。

「史織、今日部活無いでしょ? 一緒に帰ろう。」

「ごめん、今日リコちゃんと遊びに行くんだ。暦ちゃんも来る?」

違和感があった。今までは常に3人で出掛けていたのに。ふと後ろに目を向けると、リコが何か企んでいるような笑みを浮かべながらこちらに近づいて来た。

「ごめんね暦。今日は史織と2人がいいんだ。」

暗い性格でも史織のおかげでいじめられずに済んでいた私は、愚かな事にこれがリコの嫌がらせだということに気が付かなかった。飄々とした私の様子がリコの気に障ったのか、向けられる矢は日を追う毎に増えていった。

鈍感な私も流石に違和感を覚え始めた。そのうち史織まで私を無視するようになったのだ。リコや他のクラスメイトたちにいないものとされるのは構わなかったが、生まれてからずっと一緒に育ってきた彼女が自分の存在を否定しているようでそれが私には耐えられなかった。


秋風と呼ぶには強すぎる。初嵐は何かの予兆だったのかもしれない。教室に忘れ物を取りに行った私は偶然教室に残って勉強していた史織と鉢合わせた。

「あっ…」

お互いに気まずくなって視線を逸らす。突然のことにひどく動揺した私は、俯いたまま教室奥の自分の席を目指した。

「あのさ」

史織の声で立ち止まる。目を向けると、いつも穏やかな彼女からは想像も出来ないほど険しい表情をしていた。席を立ち、私の方へ向かってくる。

「リコちゃんから逃げて。」

「…え?」

「あの子は正気じゃない、このままじゃ暦ちゃんが…」

そこまで言って史織が息を飲む。私は気が付かなかった。リコが教室の入口に立っていたことに。

リコは壁に立てかけられていた自由箒を引っ掴んだ。掃除当番の誰かが仕舞い忘れたのだろう。物凄い殺気を立てて私の横を通り過ぎ、史織に向けて振り下ろす。私は一瞬何が起こったのか理解出来なかった。

痛い、痛い

史織の悲痛な叫びで我に返った。目の前には幼馴染を殴りつける、かつての親友の姿。なんだ、なんだ、この光景は。

たすけて、たすけて暦ちゃん

体が震えて動かない。酸素を取り入れられず呼吸が上手くいかない。史織の顔はみるみるうちに赤く腫れ上がり、口の端には血が滲んでいた。

リコやめて、お願いやめて

泣き叫ぶ史織の声でようやく我を取り戻した。リコを、止めないと。このままじゃ本当に、史織が殺される。後ろから羽交い締めにしようとしたが、興奮した彼女の力に適わず数メートル後ろに吹っ飛ばされた。肘がみぞおちに直撃して痛い。殴られたショックで私は動けなくなった。
騒ぎを聞き付けたらしい体育教師と数人の生徒が切迫した様子で駆け込んできて、リコを取り押さえた。それでも尚、暴れる彼女の目は完全に狂気に侵食され、初めて見るその表情に恐怖を覚えた私はその場で嘔吐した。

その事件があって、リコは退学処分を余儀なくされた。体裁を気にしてか、鹿島一家は逃げるように引っ越して行った。史織はショックで学校に来られなくなり、自宅まで出向いても玄関もより先に入ることは許されず、その度に史織の母から謝罪された。それ以来2人に会うことは無かった。私だけは何事も無かったかのような顔で学校に通い続け、クラスメイトからはさらに白い目を向けられた。それでも登校したのは、史織が戻ってきた時に教室から疎外されるのを防ごうとしたためだ。
しかし2年に上がる前、史織が自主退学したと担任から告げられた。

ーーーーー

もしあの体育教師が止めに入らなかったら、リコは本当に史織を殴り殺していたかもしれない。過去の記憶から最悪の想像は容易く、ぞっとした。

「この間史織に会ったの、本当に偶然。」

私は弾かれたように顔を上げた。リコが唇を擦り合わせる。

「相変わらず優しそうな顔してた。でも…」

左眼が、見えなくなってた。

頭を鈍器で殴られたような感じがした。背中に悪寒が走る。

「私が殴った時じゃなくて、その後の精神的ショックみたい。でも史織はもうあの時のこと怒ってないって。『私にだけじゃなくて、暦ちゃんにもちゃんと謝ってあげて』って。」

私、本当に取り返しのつかないことしちゃった

息を漏らすように出た言葉に私はもう震えを抑えきれずにいた。ふと彼女が、私の机に目を向ける。

「写真、まだ飾ってるのね。」

彼女が涙声で言った。中学生最後の日、満開の桜の木の下で撮ったものだった。

「あの時、私が史織を殴らなかったら…」

ああ、やめて。それより先は…

「私たち、ずっとあのままでいられたのかな?」

冷たい風が心の奥に吹き込んで、窓の外と同じくらい冷えた。史織がリコを許しても、大切な親友を傷つけられた私の心はそう簡単に修理出来るものではなかった。

瞬間、頭の奥が弾けて、卓上の写真立てを机の角に叩き付けた。ガラスの破片がパラパラと落ちて、私の裸足がみるみるうちに赤く濡れる。記憶の中で微笑む3人は、あどけなくて汚れを知らなくて真っ白で、今の私には眩しすぎた。思わずぎゅっと目を閉じる。

リコは俯きながら何度もごめんなさい、ごめんなさいと繰り返した。