なぜ、ひろゆきさんは「コロンブス」のどの部分が具体的に悪いのかがわからないのか?

Mrs.GREEN APPLE『コロンブス』のMVが炎上しましたが、公式からも削除されて事態はもう収束したようです(たぶん)。
自分の観た感想は、ちょっとだけ引いた、といった程度の感じです。
そもそもMrs.GREEN APPLEに興味がないのに炎上したから観にいっているという事もあって、火事場見物をしている申し訳なさのようなものもありました。

MVの内容についてはロマン優光さんの文章が批評も含めて的確だと思います。

そんな騒動の時にひろゆきさんが、
『「コロンブス」というタイトルじゃなかったら、具体的にどこがよくないという話なのだろう?』
『「タイトルがコロンブスじゃなかったら」というのは、映像表現としてアウトなのか知りたいのです』
『「タイトルが悪いだけで、タイトルが違っていたら映像表現自体は問題ない」という派閥のおいらですが、映像表現自体を責める人もいるので、具体的にどの映像がなぜ悪いのか知りたいのです』
のようなことをSNSでつぶやいていました。

「コロンブス」というタイトルじゃなかったら映像表現としてアウトなのか知りたいのです、というひろゆきさんの問い対して、自分なりに一生懸命考えてみると
①アウトではない
けれども
②問い自体に意味がない
と思ったのです。

このMVの内容は、
『リリースされた2024年6月12日の21時にミュージックビデオYouTubeで公開された。大森元貴クリストファー・コロンブス、若井滉斗がナポレオン・ボナパルト、藤澤涼架がルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに扮し、「もしも生きた時代の異なる偉人たちが一緒に旅をしたら?」という設定のストーリーが描かれていた』(ウィキペディアから引用)
というものです。

ひろゆきさんのいう通り、タイトルがコロンブスじゃなかったとしたら、おそらくコロンブスに扮していることは観ている人に分からず、炎上することも無かった(かも)しれません。
だから①アウトではない
と思いました。
しかし本当にそうでしょうか?

ここで、自分が思い出したのがひろゆきさんとDOTAMAさんが、ラップはダジャレorダジャレじゃない? というディベート対決をしたていた時のことを思い出しました。

https://www.youtube.com/watch?v=mtEuNTSJWF8&t=516s

ひろゆきさんがダジャレ、DOTAMAさんがダジャレじゃないという側で討論しています。
ここでのやり取りで

ひろゆき「切り抜かれた音を聴いて、ラップですか? ダジャレですか? というふうに一般の人は判断できますか?」
DOTAMA「出来ると思います」
ひろゆき「どう違うって分かるんですか? 一般の人は」
DOTAMA「ダジャレは、何度も申し上げていあげていますけれども、そこで留まるものであり、ずっと続いていくものではないということです」
ひろゆき「だからDOTAMAさんが自分は分かるんだっていってるのは、DOTAMAさんの主張は分かりました」
DOTAMA「だからループさせるものと、ループさせないものの違いです。簡単にいうと」
ひろゆき「そこは分かりました、DOTAMAさんがそう言ってるのは分かりました。ただ、一般の人がそこを聴いた時にどうやって判断するの? って答えをまだDOTAMAさんから貰ってないんですよね」
DOTAMA「ループさせるものと、させないもの、以上です」
ひろゆき「切り抜いたものを聴いた時に、それをどうやって聴き分けられるんですか? DOTAMAさんは聴き分けられるって言ったじゃないですか。それをどうやるのか教えてください」
DOTAMA「だからそれはダジャレでしょ? 短くしたのは」
ひろゆき「え?」
DOTAMA「ずっと続いているラップ音楽として…」
ひろゆき「続いてるかどうかは、その切り抜きにはないです。音だけを聞きました」
DOTAMA「続いているかどうかを私は話してるんです」
ひろゆき「ん?」
DOTAMA「続いてるかどうかを話してるんです」

とまあ引用はこれぐらいにしておきます。
このやりとりについて、ひろゆきさんの問いにDOTAMAさんはちゃんと返していないと言っている意見があります。しかし、これ質問自体が、DOTAMAさん側からすると、意味がないものになっていたと思うのです。
ひろゆきさんは切り抜かれた音を聴いて、ラップかダジャレか判断できるのか? と聞き、DOTAMAさんはラップ音楽は続いているものという意見を言います。
これは一見質問が噛み合ってないようにみえますが、ラップ音楽=続いているものと規定しているDOTAMAさんにとっては、ひろゆきさんの、ラップの一部分を切り抜いて続いていない状態にした時、という仮定の質問自体に意味がないのです。もうそれはラップから外れてしまっているからです。

音楽とはそういうもので、例えばピアニストのフジコ・ヘミングさんとピアノ素人の自分はどちらがピアノ演奏が上手いかと言われたら、間違いなくフジコ・ヘミングさんの方です。
ですが、フジコ・ヘミングさんと自分の弾いた「ド」の1音だけを切り抜いた時、ひょっとしたら、どちらが上手いのか一般の人にはわからないかもしれません。
しかし、ピアノ演奏というのは連続して鍵盤を叩く行為です。連続しているのが大事であって、その1音だけを切り抜くことに意味が無いし、その1音でどちらの方が上手いか一般の人が分かっても分からなくても、フジコ・ヘミングの方が自分よりもピアノが上手いのは間違いないです。

長々と脱線しましたが、作品と言われるものは、一部分を切り取るという行為に意味がないことがある、という事です。
高橋ヨシキさんだったと思うのですが、映画のDVD特典映像などで別エンディングなどが付いていることがあるけれど(ハリウッド映画に多いイメージ)、それならちゃんと本編も付けて始めから別エンディングのバージョンを観ることができるようにしてほしい、と言っていた記憶があります。
それを聞いたときに自分は、それはいらないだろ、と思いました。しかし、作品と言われるものは、一部分を切り取るという行為に意味がないことがある、と考えてみると、その別エンディングだけ見るのはただの情報です。別エンディングを情報としてではなく、映画として観たいという欲求があるには当然かもしてないと思いました。そうするには、最初から1本の連続した作品として繋げてちゃんと観せるべきなのです。

さて話は戻りまして、そもそもこのMVが炎上したのは何故なのかを、ロマン優光さんの文章を引用して再確認しておきます。

『MVには、コロンブス率いる全員白人である3人の偉人にメンバーが扮し、島に住む類人猿に文明を教えたり、人力車を引かせたりしている描写がある。島に住む類人猿という設定はコロンブスが絡むことでアメリカ大陸の先住民を連想させてしまうのはしかたがないだろう。

先住民を思わせる類人猿に白人が文明を教えているようにみえる描写は植民地主義を思わせるし、類人猿に白人がのった人力車をひかせる部分も奴隷労働を思わせる。また、選ばれた偉人が全て白人なことも、黄色人種である日本人が白人に扮することも、日本人のもつ名誉白人として自意識との関連を思わせる。』

このロマン優光さんの文章では、連想させてしまう、思わせる、という言葉が多数使われています。ここが重要なポイントです。この「コロンブス」のMVで問題になったのは、MVを観た人の脳内に、創り手が想定していたのと違うネガティブな意図や意味(テーマ)を想起させたことです。

つまり、このMVは、映像表現のどの部分がアウトなのかという話ではなく、問題なのは内容なのです。連続している映像(MV)を観た人が想起した意図や意味が(創り手が想定していなかったであろう)アウトなものになってしまった、ということなのです。
作品から意味や意図が想起するには、視覚情報と聴覚情報を観た人が脳内で検証することにより行われています。
ここで聴覚情報とわざわざ書く意味が分かりにくいかもしれませんが、例えば今回の歌の歌詞がコロンブスを侵略者として批判する内容だった場合、全く同じ映像だったとしても、観ている人が想起する意味や意図は、だいぶ皮肉めいたものへと変化した可能性はあります。
ひろゆきさんは、映像表現という言葉を使う時、映像だけを指していると思うのです。
しかし今回問題だったのは作品の意味や意図であり、それは客観的に言うと作品の内容と呼ばれるものです。
作品の内容というのは、キャラクター、世界観、ストーリーなどで構成されています。今回の炎上で、どの部分が具体的に悪いのかをもし検証しようとするならば、この3つのどこが悪いのかを検証すべきなのです。
アウトなのは映像そのものではなく、映像表現(視覚情報+聴覚情報)で描き出された作品の内容(キャラクター、世界観、ストーリーで構成された内容及び意味や意図、テーマ)です。
そして作品の内容というのは、映像の一部分を単体で取り出して判断できるものではないのです。

Q なぜ、ひろゆきさんは「コロンブス」のどの部分が具体的に悪いのかがわからないのか?
A その問いの立て方がそもそも間違っている

さて結論を書いたのに文章はもう少しだけ続きます。再度の引用になりますが、このMVは
『リリースされた2024年6月12日の21時にミュージックビデオYouTubeで公開された。大森元貴クリストファー・コロンブス、若井滉斗がナポレオン・ボナパルト、藤澤涼架がルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに扮し、「もしも生きた時代の異なる偉人たちが一緒に旅をしたら?」という設定のストーリーが描かれていた』(ウィキペディアから引用)
というものです。ひろゆきさんの言う通りこのMVのタイトルが「コロンブス」じゃなかったとしても、この内容(ストーリー)はそのままと規定します。タイトルだけでなく内容まで変更したら、それはもう完全に違う作品になってしまうからです。

まず、ひろゆきさんは『「タイトルが悪いだけで、タイトルが違っていたら映像表現自体は問題ない」という派閥のおいら』と書かれています。
つまりひろゆきさんも、タイトルが「コロンブス」なのは悪いと思っているようです。
ではMVのタイトルが違っていれば、なぜセーフになるのでしょうか。
理由を考えてみると
A タイトルが「コロンブス」でなければ、主人公はコロンブスではなくなる
B 主人公はコロンブス、及び上記の内容であることは、この映像表現だけでは分からない

という2つの理由が考えられます。

まずA タイトルが「コロンブス」でなければ、主人公はコロンブスではなくなる可能性ですが、タイトルが無くなっても内容が変わるわけではないので、主人公はコロンブスのままです。先ほども書きましたが、内容が変わるならそれはもう別の作品になってしまうからです。
とすると、B 主人公はコロンブス、及び上記の内容であることはこの映像表現だけでは伝わらないから、炎上はしなかったかもしれません。この映像自体には映し出されて即座に問題になる箇所は(おそらく)無いのですから。
しかし、内容が伝わらないからセーフになるという考えはそもそもどうなのでしょうか。
本当に、もし「コロンブス」というタイトルではなかったとしたら、内容が伝わらない状態だったとしたら、MVのどこかでMrs.GREEN APPLEのメンバーがコロンブスに扮しているのが、ちゃんと分かるようなMV(映像表現)に変えてると思います。
あくまで「コロンブス」というタイトルのMVだからこそ、主人公がコロンブスであることを説明しなくても伝わっていると創り手は判断したわけです。タイトルが違っていたらちゃんと別の方法でコロンブスであるのが伝わるようにMVを創っているはずなのです。
そもそも、実際のMVでは主人公がコロンブスだということは伝わっています。その現実を無視して、もしもタイトルを抜いて映像を観たら内容が伝わらないからセーフではないか、と考えることに意味はあるのでしょうか。
このMVにおいて「コロンブス」というタイトルは内容(キャラクター、世界観、ストーリー)を伝えるうえで大事な要素です。そして、このタイトルを抜いた状態で、このMVの良し悪しを考えるという行為に意味はおそらく無いのだと思います。

しかし、Mrs.GREEN APPLE『コロンブス』のMVが公式からも削除されて事態はもう収束したように見える今、ここに書かれた文章も意味が無いのかもしれません。
この文章が、あなたの脳内で検証され、意味や意図を紡いだ結果、何か良いものが残るのを祈って、ここで文章は終わります。
ありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!