【TEXT】ピアノを弾く人(弾ける人)とピアニストの違いって何だろう?── 西尾佳織(鳥公園)

映画『ピアニストを待ちながら』連続テキスト企画3弾が到着いたしました。今回は劇作家、演出家、鳥公園主宰の西尾佳織さんによるテキストになります。西尾さんは本作公開記念シンポジウム「演劇を待ちながら」に登壇していただきました。

前半は映画本編の振り返りになっております。虚を突くとはまさにこのこと、ラストの痺れる指摘をぜひご覧ください。

西尾佳織(鳥公園)
劇作家、演出家、鳥公園主宰。1985年東京生まれ。幼少期をマレーシアで過ごす。東京大学にて寺山修司を、東京藝術大学大学院にて太田省吾を研究。2007年に鳥公園を結成以降、全作品の脚本・演出を務めてきたが、2020-2022年度は3人の演出家を鳥公園のアソシエイトアーティストに迎え、自身は劇作・主宰業に専念する体制に移行。2024年より演出を再開。創作と運営を活動の両輪と捉え、人の集まり方からつくり直すことを試行中。『カンロ』『ヨブ呼んでるよ』『終わりにする、一人と一人が丘』にて岸田國士戯曲賞にノミネート。ライフワークとしてからゆきさんと森崎和江のリサーチ・創作にも取り組んでいる。


 「ピアニストを待ちながら」は、真夜中の図書館に閉じ込められた人々が、明けない夜の終わりを待ち望みつつ演劇のリハーサルを繰り返す物語だ。天井まで届く書架に挟まれた階段で目を覚ました瞬介(しゅんすけ)は、外に出ようとするが、どの扉から出てもなぜか館内に戻ってしまう。途方に暮れて建物内を彷徨ううちにグランドピアノのある部屋にたどり着き、何気なく鍵盤に触れていると、同じく閉じ込められた人々が徐々に姿を見せ始める。

 瞬介の大学時代の演劇仲間である行人(ゆきと)と貴織(きおり)は、コロナ禍で上演中止になった演劇作品『ピアニストを待ちながら』の稽古をしている。誘われてこの作品に参加した中年男性・出目(でめ)は、行人が書いたフィクションを信じてしまい、「ピアニストが来ればわれわれは解放される」と思っている。そして瞬介に問う、「君はピアニストか?」

 出目は、ピアニストが来たら祭をやる、その中で自分は詩を読むのだと言う。自分はピアニストではない、小さい頃に習っていただけだから。でもピアニストなんか待たずに、今、詩をつくればいいではないかと言う瞬介に出目は、そんなのは嘘だと言って、一向に詩をつくろうとしない。

 小さい頃に習っていたのでピアノを多少弾くことはできる。しかしピアニストではない、という人は、きっとたくさんいるだろう。演奏をいくらかできることと、ピアニストを名乗ることの間には大きな隔たりがある。

 行人と貴織に請われてピアノを弾く瞬介は、しかしとても楽しそうだった。ピアニストでなくたって、ピアノを楽しむことはできる。

 瞬介のピアノに合わせて行人と貴織が軽快に跳ね踊るシーンで、「振付:神村恵」のクレジットを思い出して、なぜか安心する気持ちになった。そして、このシーンって「瞬介が即興でピアノを演奏して、行人と貴織がそれに合わせて即興で踊っている」設定(=『ピアニストを待ちながら』を今回改めてリクリエイションしている)じゃなくて、「上演中止になる前につくっていたシーンを、それぞれが思い出して今合わせている」設定なのかな?と考えた。

 何が言いたいかというと、あのシーンを見ながら「練習すること」「(時間を経て)再び上演すること」「練習して、『(時間を経て)再び上演する』シーンを演じること」について考えたのだ。

 実は行人は2年前に死んでいることが、作品の終盤で明かされる。3年前にコロナ禍で『ピアニストを待ちながら』は上演中止となった。その1年後に行人は亡くなったが、どうやら本人はそのことに気付いておらず、上演中止の無念を晴らそうとリハーサルに取り組んでいる。そして行人の恋人でもあった貴織は、瞬介よりも先にこの図書館で行人とともに目覚め、死んだはずの行人がその自覚なしにリハーサルに励むことに混乱と恐怖を感じつつ、言い出せず行人に合わせていた。それゆえ後から現れた瞬介がどういうステータスなのか(行人と同じく、行人の死を認識していないのか、あるいは自分と同じく上演中止の3年後を生きていて、行人が死んだことも認識しているのか)を探っていたのだろう。(貴織の「やっぱり行人は私たちのこと恨んでたんだ」という言葉から、筆者は貴織と瞬介のあいだに何がしかの秘密のあったことも感じた。)

 この時間のズレを踏まえると、瞬介のピアノに合わせて行人と貴織が踊るあのシーンで、瞬介と貴織は3年前の上演に向けて練習していた演奏/ダンスを3年越しにパフォームしていることになる。おそらく行人は、上演中止からそれほど経っていない時間の中にいるようだったから、行人との時間(と気持ち)のズレがないフリをしている貴織は、間違えないように必死にあのシーンを再現していたのかもしれない。楽しそうに見えた彼女の内面にそんな歪みが隠されていたと思うと、ぞっとする。しかもその演技を、いつやめられるかも分からないのだ。

 「不在に向けて演じることは、無人であることとは違う」という行人の言葉を、今も考えている。無人は単に「存在しない」という意味だが、不在は「いるはずなのにいないこと、いるはずの人を自分のうちに持ちながら不在に向き合うこと」だ。そのことについて「センチメンタルじゃなくて歴史を考えたい」と行人は言った。

 「演劇はどこに向けて演じられてきたのか。その向けられてきた先が、たまたま今は不在である、ということなんじゃないか」

 そのようであるべきだ、そうであってくれ、と思う。つまり、歴史の中でこれまで演劇は届けるべき先を持ってきて、コロナ禍においてはそれが一時的に「不在」になってしまったが、この夜が明ければわれわれは再びこの表現を届けるべき先を取り戻すのだと。

 しかし現実はそうなっているだろうか? コロナ禍で減った演劇の観客は、戻り切っていない。「不在」が長引いているのか、演劇の観客席が「無人」になりつつあるのか。

 最後に、ここまで全く触れてこなかったもう一人の登場人物・絵美について書こう。劇中劇において、彼女は出目の演じるキャラクターの首に付けた縄を引いており(出目と絵美は、『ピアニストを待ちながら』の下敷きになっている『ゴドーを待ちながら』のラッキーとポッツォに当たる)、一応劇には参加しているものの、台詞も少なく他の4人に比べて熱意も見られない。中庭のベンチでスマホの画面を操作する姿がよく見られる彼女は、「息子とのLINEだけはつながってるの」と言う。その言葉の真偽は不明だが、子供という存在に引っ張られ、演劇にあまりのめり込まずそこにいる絵美に、私は近しいものを感じていた。

 私事だが、筆者は2020年2月に第一子を出産したため、以降の育児が完全にコロナ禍と重なっていた。そのときの私にとって、演劇は待ち焦がれるものではなく、むしろノれなさを感じながら、どちらかと言うと批判的に眺めるものになっていた。自分にとってのリアリティが変質してしまって、自身の活動も公演よりはリサーチや執筆、ワークショップ等に傾いていた。

 祭をやるための「申請書」を書いて提出しようとする行人に出目が言う。「自主的にやる祭なんだから、そんなの必要ないじゃないか」と。しかし行人は、求められることには応えとく、と返す。ピアニストを待つ「表現者」たちは、管理を積極的に受け入れて馴致されている。

 私には彼らが、夜が明けて外に出られることを待ち望むフリをしながら、どこかでこの強いられたモラトリアムを甘受しているように見えた。貴織が演じ続けることの限界をこぼし、明けない夜をつくり出した主体とされた行人が消えても、ピアニストは来ない。


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