スワンプマンの思考実験と意識の連続性についての考察
スワンプマンという思考実験があります。要約すると、以下のような内容です。
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私がハイキングコースを歩いていると、突然雷が落ちてきて、私に直撃し、私は死んでしまった。
しかし、なんということだろう。私のすぐ近くにあった小さな沼に再び雷が直撃し、雷との複雑な化学反応により、奇跡的に私と全く同じ原子構造をもった私のコピーが誕生したのだ。その私のコピーをスワンプマンと呼ぼう。スワンプマンには私の記憶が完全に引き継がれている。
スワンプマンは目覚めると立ち上がり、何事もなかったかのように歩き去って行った。
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スワンプマン、救急車を呼べよ。と思いますが、ここで問題としたいのは、意識の連続性についてです。はたしてスワンプマンに意識は連続するのでしょうか?
ここにはふたつの考え方があります。
ひとつは、スワンプマンには私の記憶がそっくりそのままコピーされているのだから、スワンプマンの主観の上では、意識は連続しているだろう。よって、意識は連続する。
一方、別の考えでは、スワンプマンの主観の上で意識が連続していたとしても、それはあくまで見かけ上のものに過ぎない。実際、スワンプマンが誕生した後、私が息を吹き返せば、意識は私に連続しているとみなせるだろう。このように、そこから世界を眺める窓、あるいは世界の「原点性」については、スワンプマンには連続しないだろう。
上記ふたつの考えは、意識の連続性に対するふたつの立場を現します。すなわち、
記憶の連続性がみかけ上の意識の連続性を生みだしている
世界を眺める「原点性」が意識の連続性を担保している
意識の連続性に対するこのふたつの概念は、本来「私」という身体において同時に成立しており不可分のものです。それを意図的に分裂させたところに、スワンプマンという思考実験のポイントがあるように思います。
どちらも最もらしい考えですが、正しいのは一体どちらなのでしょうか?
ある仏教法話の例
実は、スワンプマンに似たような内容の話は、東洋にもあります。というかむしろ、東洋の方がこの手の話は歴史上、より深く語られているように思います。
以下は「衆経雑譬喩」という経典にある仏教法話の一例です。
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旅人が、死体を取り合っている鬼にでくわしました。鬼達は旅人に「この死体はどっちのものだと思うか、お前が決めてくれ」と言います。
旅人が「その死体はこっちの鬼のものだ」というともう片方の鬼が怒って旅人の手足をもぎ取ります。すると、もう片方の鬼は「かわいそうじゃないか」と言って今度は死体の手足をもぎ取って旅人にくっつけます。
そうやって手足をもぎ取ってはくっつけを繰り返した結果、最終的に死体と旅人が完全に入れ替わってしまったのでした。
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参考リンク:どれが自分なのか | 臨済宗大本山 円覚寺 (engakuji.or.jp)
この話はいわゆる「テセウスの船」と同型で、スワンプマンと同様に「私」の連続性や同一性について語っているのですが、仏教の考えによると、「諸法無我」の教えが示すように、「私」というものはみせかけに過ぎません。
旅人が死体に置き換わってしまう中で、変化してしまった「私」という実在など、最初からなかったのです。
スワンプマンに話を戻すと、意識の連続性を担保している「原点性」というものは、仏教的視点からしてみたら見かけ上の連続性に過ぎない、ということになります。
その視点からすると、「ある瞬間の私」と「次の瞬間の私」が同一の主観的原点から世界を眺めている、という、ある意味当然視されているような考えは、実のところ錯覚である、ということになります。
それぞれの「この私」は本来独立に存在するものであり、記憶などによってみかけ上、連続性が成立しているように錯覚されているだけである。
この考えでは、「一瞬後の私」と「スワンプマン」は、「この瞬間の私」に対して記憶によるみかけ上の連続性をもっているだけの、同類の存在です。
場の量子論と電光掲示板の例え
場の量子論においても、似たようなたとえ話があります。
場の量子論においては、「量子場」なるものから粒子が現れたり消滅したりを繰り返すことが、粒子の運動を現します。
ここで、この粒子の生成消滅を電光掲示板におけるライトの点滅と対応づけて考えます。すると、それぞれのライトの点滅によって生じる光の見かけ上の動きが、粒子の運動に対応づけられます。
これはまさに、それぞれ独立して存在する「ある瞬間の私」から「次の瞬間の私」に、意識が連続してゆく様子のアナロジーと考えられます。
この例えに従うなら、「私」から「スワンプマン」への意識の連続性もまた見かけ上のものであり、「原点性」がどちらに連続するのか、ということはもはや言えなくなります。
意識のストリーム
考えてみれば、我々の認識は時空間上に独立に存在している諸情報を「流れ」として連続的にとらえるメカニズムを持っています。
たとえば音声ストリームを考えてみると、各時間点におけるサンプルはただの数値データに過ぎません。しかし、これが時間的に連続して続くことで、「音声」という連続した流れとして我々の意識はとらえることができます。
視覚についても同様です。PCのモニター画面は小さな画素の集まりでしかありませんが、それが空間上に適切に配列されることで、我々の認識はそれをなんらかの画像として認識することができます。
このように、時空間上に本来独立して存在している諸情報を一つの「流れ」、すなわちストリームとして現すことができるのが、意識の特性のひとつです。
同様に、各時空間点上に独立して存在するそれぞれの意識断片=クオリアを「意識のストリーム」として連続的に現したものが、まさにこの意識に他ならないのではないか、とも考えられるでしょう。
なぜ私は私なのか
さて、時空間上に元来独立して存在する諸意識断片、クオリアが記憶などの作用によって有機的に繋ぎ合わさったストリームこそが、「この意識」である、という描像が得られました。
そう考えるなら、スワンプマンの思考実験における意識の連続性というものも、ひとつの「ストリーム」を現しているのであり、「この瞬間の私」から「次の瞬間の私」における意識の連続性も、「私」から「スワンプマン」に続く意識の連続性も、まったくの同型である、とみなすことができるでしょう。
では、ここでひとつの問いを考えてみましょう。
雷に打たれた「私」が、スワンプマン誕生後に息を吹き返し、目覚めたとします。このとき、はたして「私の意識」はどこに連続するのでしょうか。
ここで、「なぜ私は私なのか」という問題が関連するテーマとして浮かび上がります。目が覚めた「私」の立場からしても、スワンプマンの立場からしても、「なぜ私はスワンプマン/私ではなく、『この私』が意識として選ばれたのか?」という謎が生じるでしょう。
この謎に対する答えはすでに別の記事ででています。その記事によれば、「あらゆる意識断片=クオリアが『この私』であり得る」という帰結が導かれるのでした。
これに従うなら、「この私」が「私」であろうと、「スワンプマン」であろうと、その主観が選ばれたのは単なる偶然、ということになります。この見方は上記の議論の流れとうまく整合していると考えられるでしょう。
まとめ
スワンプマンの思考実験において意識の連続性を考えた場合、「記憶によるみかけ上の連続性」と「世界を眺める主観的原点の連続性」というふたつの連続性が前提としてあることが考えられる。このふたつの連続性の概念を分断させるところに、スワンプマンの思考実験の妙がある。
仏教的世界観においては、「私」の連続性は見かけ上のものに過ぎない。
場の量子論において、粒子の運動は電光掲示板の光の見かけ上の動きに例えられる。これは意識の見かけ上の連続性のアナロジーである。
意識は本来それぞれ独立に生じている意識断片(クオリア)を時空間的に有機的に結合し、連続したストリームへと変化させるメカニズムである、と言えそうだ。
「あらゆる意識断片が『この私』であり得る」、という立場は、上記世界観と整合する。