ラブホテル
ふとある青年を思い出した。二世代ほど前の雰囲気が溢れるラブホテル。そしてその向かいに佇む大きなアパート。208号室の彼、元気にしているだろうか。いや、今は402号室だろうか、502号室、若しくは505号室かもしれない。わからないが。
燃えるゴミの日には、眠たそうな顔で螺旋階段を駆け下り、同アパートの住民や登校する小学生に部屋着を見られることを少し恥ずかしそうにしていた。ゴミを捨てるとすぐに、ポケットにある集合玄関の鍵を握りしめていた。部屋の前の通路を通りながら、右手に見える道路を通る車を眺め、排気音を聞きながら世間の朝は早いのだと自分自身の呑気さに少しだけ呆れ返っていた。玄関の覗き口を塞ぐように貼られたごみ収集のカレンダー。それを見るやいなや、今朝の自身の行動に内心、一喜一憂していたなんてことを話していた。
連続テレビ小説を点けながら、仕送りのダンボールに入ったままの菓子パンを食べる。母の気持ちが籠っていると考えるとダンボールも捨てることができず、近くのスーパーで追加して買ったパンなんかも、その箱にしまっては大事にしていた。所謂、ホームシックたるものだろうか、言い換えればそれほど家族を大事に思っているのだろう。そして、朝食を済ませば梯子をよじ登り、二度寝をする。この一連の流れが日々の喜びだったらしい。少し毛玉の付いた布団。ある程度の綺麗さは保ちながらも、ほんの少しだけ生活感が滲み出ていた。
40分ほどすれば、勝手に目が覚める。なんてことはない。寝坊だけは避けるべく、iPhoneの通知音量の最大の3分の1くらいの音量にセットされたレーダーが流れ、目を覚ます。寝た感覚なんて微塵も感じられない。頭の辺りに置かれた目覚まし時計。デジタルの時計は電波を受信し、正しい時を画面に映し出している。けれども、過去にはiPhoneでなく、その時計をセットしたところ、電波の受信がうまくできず、なぜか4時間も前の時間を画面に表示し、寝坊をしたことがあるらしい。だから、iPhoneのアラームにしたんだとか。
1人で暮らしているはずなのに、部屋の中がうるさい。それは、彼が部屋と廊下を右往左往しているからだ。テレビを消し、窓やカーテンを閉め、電気を消し、IHコンロを確認し、冷蔵庫が開いていないか確認する。確認のし過ぎだともいえる彼の行為は2度、3度、4度と続くらしく、せっかく早く支度を済ませたとしても、なかなか部屋を出られないらしい。部屋を出たとしてもまた次の壁がやってくる。部屋の扉のロックの問題である。ボタンを押せば、カチッと音をたて、ピーっという機械音が鳴り、鍵をかけることができる。けれども、彼は何度もドアノブを握っては引き、握っては引きを繰り返し、自分に大丈夫だと言い聞かせては、また不安になり同じ作業を繰り返す。若しくは、通路を歩き出していても、足を止め、後ろへと戻っていってしまう。それが苦悩であり、辛苦であると私に語ってくれた。
そんな彼を最近見かけなくなった。208号室のポストには彼の名前が書かれた葉書と封筒、そして近くの寿司屋のチラシ、住宅展示場のチラシ、高額バイク買取のチラシが顔を出している。郵便屋が来る度、如何にしてポストに投函するか少し試行錯誤をしては、日々郵便物を積み重ねている。特に、市の広報課が月に1度制作する冊子は分厚く、投函が難しそうである。
彼は、休日がある度、地元に戻るという話を私にしていた。駅に向かって歩いては、学生の若々しさに少し押しつぶされそうになりながら、構内のベンチに座り、鈍行列車が彼を連れて行く。列車へ乗り際の彼の横顔は、普段よりも少し穏やかだった。そして、夜遅い時間に彼はまた、鈍行列車で帰ってくるらしい。幾回もの乗り換えを経て。誰もいないときには、暗闇から襲われるのではないかという恐怖に襲われ、彼女と電話をしながらアパートへ帰るらしい、そうすれば1人で話している変な人だと思われうるから、更なる人は寄ってこないんだとか。そんなよく分からない理論を言っていた。そんな彼女ともうまくやっているのだろうか。彼としばらく会えていないため、少しだけ嫌な予感もする。また、自身と同じ駅で数人が降りた場合には敢えてゆっくり歩き、前を歩く人との隙間をだんだん広くしていき、ストーカーだと思われないように注意を払っていると聞いた。賢いんだか、賢くないんだか、よく分からないが、そんな彼の行動は彼らしくて好きだった。
彼は帰ってきた、知らない人たちと。少し騒がしそうにしているため、何をしているのか気になった。どうやら、部屋の片付けをしているみたいだった。そして、その荷物は階段やエレベーターなどを通って駐車場へと運ばれて行った。そして、暫くすると今度は冷蔵庫が運ばれて行った。しかし、その時に限ってエレベーターは調整中であったようで、螺旋階段を通ってゆっくりゆっくりと運ばれて行った。勿論、冷蔵庫の感情なんて読み取ることは出来ないが、彼の家に置かれているときよりも少し、寂しそうで萎縮しているようだった。けれども、その中にはこれからの期待といったものも見えた気がした。そして彼は複雑な表情をしていた。これからに期待をしているのか、自分自身に絶望をしているのか、色々な感情が溢れ出ているようで、一概に正確な感情を読み取ることはできなかった。
それから彼を見ていない。208号室は、彼の生活の記憶を残しているのだろうか、それとも新しい住民が越してきたのだろうか。わからない。けれども、彼ならばきっと彼らしく生きているのではないかと思う。
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